THE FATES

12.讃歌(5)

 剣の柄に手をかける。自分以外のものがあっては鏡への呼び声が濁る気がした。力を込めると、こらえていた血が口から溢れた。剣を一気に引き抜く。溜まっていた血が傷口から吹き出した。
 弱々しく降り注いでいた光は失せ、あたりはひどく薄暗い。瞬は鏡のない、空っぽの胸に手を添えた。術式など介さない、結界に阻まれることない魂の叫びだった。鏡とのあいだにぴんと張られた、目には見えない糸が小さく震える。
 応えた。
「隔てられた世界、千切れた時間、拒絶した未来、放棄した変化。すべての楔を解き放ち、あるべき姿へ。動きだす世界を、我は愛す」
 体がひりつくように熱く痛い。瞬は歯を食いしばって龍仰鏡へと意識を向けた。糸を手繰り寄せ、距離を越えてその手におさめる。
「なんのつもり。術式なんて無駄よ」
 砂嵐の雨風が近づいていた。地上を爆撃するような雨音に、互いの声は聞こえない。結蘭の《気波動》が瞬へと襲いかかる。肩や脚を貫かれる。それでも掴んだ糸は離さなかった。
 空からは大粒の雨と、巻き上げられた砂が降る。その砂嵐が結界まで及ぶ。
 瞬はにやりと笑った。
「鎖陣、啓明」
 いっそう激しく渦巻いたのち、嵐ははじけた。
 動き出した時間の歯車に飲まれ、結界は粉々に砕けていく。大地が震え、空が酔う。結蘭は衝撃を避けきれず、大きく吹き飛ばされた。
 砂嵐は天水における時間の繋ぎ目、時間操作における核だった。瞬はいま、その核を潰した。天水のひずみ、世界との繋がり、すべて未完のままに投げ出す。あとのことはあとの彼らへ託した。
 砂漠は一瞬にして静寂に包まれた。やむことのなかった風が途絶え、雪原のような静けさだった。氷柱を叩くような甲高い耳鳴りがした。足元はぬかるみ、見渡すかぎり砂丘のかたちも変わってしまった。それだけが瞬にわかることだった。景色は五感によって構成された。瞬は自分だけの世界を取り戻したのだ。
 濡れて重くなった上着を脱ぐ。シャツが肌に張りついて冷たい。負担が減ったのか傷口はすっかり塞がっていた。しかし痛みは消えない。むしろいっそう疼く。
 いとしい。生きている痛みだ。
 泥濘で動くものがあった。結蘭だった。彼女はふらりと立ち上がり、空を眺めた。
「時間を」
 天水の空はまだ灰色をしている。さざなみの空には程遠い。だが世界の時計はたしかに動き出していた。その証拠に、雲はゆるやかに流れはじめている。
「なあ結蘭。最後の龍眼、ほしいだろう」
 おもむろに結蘭が振り返った。
「俺と賭けをしないか」
「私と交渉するつもり?」
 瞬はその場に剣を突き立て、結蘭とのちょうど真ん中になるようそこから離れた。十歩。細身の剣を挟んで向かい合う。
「その剣を先に手にしたほうの勝ちとする。結蘭、おまえが勝ったら龍眼をやる。だが俺が勝ったら俺に関わる一切から手を引け。二度と俺の前に姿をあらわすな」
「私の意見は聞き入れてもらえないのかしら」
「片腕のおまえより片目の俺のほうが不利な勝負だ。いいだろう」
 痺れきって感覚のない瞼を手でおろす。光だけでなく闇すら感じられない。
「まあいいわ。受けてあげる、その勝負」
 結蘭は髪についた泥を払って、持っていた龍眼を口にくわえた。
「ありがとう」
 手のひらにやわらかな光を生み出し、中空へそっと浮かべる。光は綿毛のように風に舞い、やがて砂に落ちた。それを合図にしてふたりは飛び出した。
 歩けば十歩、走れば五歩の距離だ。勝敗は一瞬で決する。瞬はずっと剣ではなく結蘭を見ていた。彼女の腕だけを追っていた。剣を手にしたほうが勝ちとはいえ、結蘭は必ず剣を瞬へ向けてくる。砂から引き抜いた流れで、切っ先を跳ね上げるように瞬の見えない左側を斬りつけてくる。瞬はそれを待っていた。
 結蘭の手が剣へ向かって伸ばされる。瞬も同じように腕を出した。柄にまで届いたのはほぼ同時だった。だが瞬の指先は見当違いの場所をすり抜けていく。龍眼を歯に挟んだまま結蘭が唇をつりあげた。勝った、龍眼はもらったと目が叫ぶ。剣を引き抜いて、瞬めがけて切っ先を突き出す。息がかかるほど近くで、結蘭が瞳をにじませた。歯と龍眼の隙間から、愉悦のため息がもれる。刃は服を裂いて肋骨を掠めていった。左側は見えない。だが逃がさない。剣に体を沿わせて斬らせながら、結蘭の肘を脇に挟んだ。力強く抱き寄せ、隻眼で微笑みかける。
「おまえの片腕をもいでおいて本当によかった」
 結蘭は呆然と瞬を見上げていた。龍眼が舌の上へころがる。
「悪夢には耐えられるんだったな。だがいまこの時でもそれが言えるか」
 瞬はあいていた手で結蘭の顔を覆った。
「絶望を召しあがれ」
 結蘭の意識の底へと幻術を送り込む。彼女が見る悪夢や絶望を瞬が操作することはできない。だが想像はできた。最後の龍眼を目の前にしてそれを手に入れられない予感は、結蘭にとって悪夢や絶望であるとともに屈辱でもある。彼女の執着や自尊心の高さから想像すれば、耐えられるはずがなかった。
 それは彼女の原動力であり、彼女の隙でもある。
「あ、ああ」
 小さく悲鳴があがる。口の端からは涎を垂らし、歯と龍眼でがちがちと音を鳴らす。膝が震え、瞬の支えなしには立てなくなった。
 瞬は術を弛めることなく、さらに強めた。鬼使の封印を解き、時間との鎖を断ち、ただのひとりの人になって自由が利いた。鏡が手元になくとも力は無尽蔵に湧きだした。壊れてもいい、これが最後になってもいい。ありったけを結蘭へぶつけた。
 空を裂くような結蘭の悲鳴が響く。声が掠れて途切れてしまっても、叫びは消えなかった。
「わたしの、わたしの龍眼よ!」
 奇声と唸り声のあいまに、結蘭ははっきりと言った。あまりにも明確な意思に瞬は驚いた。
 結蘭の足元で砂が渦を巻いていた。砂だけではない。大気もねじれていた。空には雲が集まって眼のようになっていた。瞬は思わず手を離し、術を中断した。結蘭の力が暴走している。絶望に犯され擦り切れていくのではなく、むしろ拒絶して膨れあがっていた。
 だが瞬は一度しかけた幻術を解くすべはもたないのだった。
 大地が震えていた。小刻みに、ときおり大きく揺れていた。突き上げるような衝撃が、徐々に激しさを増していく。立っているのも難しくなるなかで、結蘭は恍惚と空を見あげて泣いていた。幼い少女のように頬を赤らめて泣いていた。
「結蘭」
 不意に結蘭の根源がわかった気がした。自分たちは愛を知らず、愛をほしがり、愛を壊すしかできない。龍仰鏡を持って生まれたため忌み子とされた瞬、結界師の力を持っていたため生まれながら一族を統率する立場にあった結蘭。ふたりは酷似した運命のうえに立っていた。
 焦点の合っていなかった結蘭の目に、光が戻る。その刹那、彼女はまだ恋も知らない少女のようだった。
「しゅ――」
 瞬と呼ぶことはできず、結蘭は視界から消えた。剣が深く刺さったまま勢いよく離れていく。体を持っていかれそうになり、とっさに結蘭の腕を掴んだ。
「結蘭!」
 ふたりの放つ《気波動》に耐えられず、大地がひび割れて陥没した。結蘭が立っていた場所はすでに暗闇の底へ落ちた。片腕に結蘭が委ねられる。
 瞬は腹這いになって亀裂のなかの結蘭を見おろした。
「結蘭、移動法を使え。いつまでももたない」
「無理よ。《気波動》が残っていないもの」
 妙にすっきりとした顔をして、結蘭は静かにこたえた。
 剣を伝って血が落ちていく。結蘭の腕は瞬の血で真っ赤になり、掴んだ手はぬるぬると滑った。こらえようとすると、いっそう血が溢れていく。
「私を殺すのでしょう。簡単よ、その手を離すだけでいい」
 結蘭の言うとおりだ。瞬は結蘭のいのちを握っている。だが選びたくはなかった。
「お前に謝ってほしい人がいる」
 瞬自身、思いがけないことだった。大切なものを守るため、そして喪ったものを弔うために結蘭を殺すつもりでいた。殺しても足りないとまで思っていた。それが彼女をいつでも殺せる今になって、瞬は彼女を生かそうとしている。自分でもおかしなことだと思った。
「琉霞に謝ってくれ」
 きっと琉霞は望まない。結蘭を縛り上げて引きずっていき、無理矢理謝らせたところで喜びはしないだろう。それでもそうせねばならない気がしていた。
 結蘭は涼しげに笑った。
「それがあなたの目的だったの。違うはずよ。あなたのなかにあるどうしようもない怒りをぶつけたかったんでしょう」
「そうだ。お前を殺したかった。すぐにもこの手を離したい。許せるはずがない。いや、これからだって許すことはない。だが違う。それじゃ終わらないんだ」
「立派なお話」
 声を立てて結蘭はわらう。
「でもね、そんな立派さはいらないのよ、私とあなたのあいだには」
 握っていた剣を瞬の体へ押しつけて、結蘭は乱暴に手を振り払った。ぬめりと痺れで限界だった手は、簡単に結蘭を手放してしまう。
「ゆい、らん……!」
「私、あなたと心中するわ」
 舌にのせていた龍眼を手にもって、結蘭は微笑んでいた。花嫁のように朗らかに、目を細めて喜んでいた。そうして結蘭はそのまま亀裂の闇へ消えていった。
 瞬は体を起こして剣を抜き、結蘭が落ちていった場所へ投げ入れた。返ってくる音はない。底は深い。
 傷口からの血がとまらなかった。手で押さえてみても溢れてくる。瞬もまた力を使い果たしていた。湿った砂の上へ寝転がる。空は揺らめいていた。さざなみの空だ。
 瞬は乾いた笑いをもらした。声は次第に大きくなり、最後には血を吐いた。荒い息を途切れ途切れに洩らす。
「悪いな、紅」
 さざなみの空を取り戻すと言っていた、彼の目標を奪ってしまった。
 煙草をくわえて、火をさがす。
「ああ、そうか」
 火付け具を塔の下へ置いてきたことを思い出す。瞬は煙草を捨てて、ひとつきりの目を閉じた。
 血や吐息とともに命のこぼれていく感覚があった。だが失われていくようには思えなかった。すべて世界が受けとめてくれていた。抱かれている。赦されていた。空っぽの眼窩から、止まっていたはずの血がひとすじ流れ落ちた。
 風の音がする。湿った砂のにおいがある。瞼の裏はわずかだが明るくなっていく。それは遠い場所のことではない。手を伸ばせば届く。その距離感に瞬は安心した。ここに生きているのだと、実感した。
 羅依を力いっぱい抱きしめたかった。梅詩亭で梅煉の料理を食べて、詩桜が淹れてくれる茶を飲んで、由稀の手際の良さに感心して、紅の不器用さに茜を重ねて。自分はもうひとりではないのだと、ずっとひとりきりではなかったのだと確かめたかった。
 ゆっくりと体を起こす。血が足りず、視界がぶれる。見えている世界が不安定に波打った。
 一陣の風が吹く。空に何かよぎった気がした。白い綾紐のように見えた。だが確かめることはできない。
 景色が暗転する。
 瞬は、口をひらいた大地の狭間へと吸い込まれていった。