THE FATES

12.讃歌(6)

 由稀にはそのとき何が起こったのかわからなかった。
 黒煙をあげる炎の向こうで、赤い血が散った。青竜の体が不自然に折れ曲がって倒れていく。久暉の手で引き剥がされた杖は、蛇からただの木切れになって砂の上を転がった。
「慶栖! 慶栖……!」
 久暉の叫びが灰色の空に響く。由稀はそれを呆然と眺めていた。
 腕に抱いた詩桜はまだ意識がない。だが呼吸はしっかりとして、頬には赤みがある。由稀は彼女の体温へ縋るように強く抱きしめた。
 青竜のそばへ膝をついて、久暉は青竜の服を掴んだ。
「起きろ、慶栖。返事をしろ!」
「ひ、さき……さま」
 話すそばから、血があふれる。それでも青竜は話すことをやめず、久暉もまた話し続ける青竜をとめはしなかった。
「久暉さま、私を殴らないんですね。怒って、いないのですか」
「怒っている。ひどく腹立たしい。だが、殴らない」
 久暉は青竜の喉から胸元へ視線を落として、歯噛みした。
「慶栖、わけを聞かせろ」
「申し訳、ございません」
 わずかに青竜は笑ったようだった。だが顔半分は血で赤く、笑顔にはほど遠い。
「謝れとは言っていない。理由を話せ。なぜこんなことを」
「お話し、しましたよ、さきほど。あなたのためだと」
「言ってる意味がわからない。俺のためだと? ふざけるな。お前のいのちは俺のものだ。お前が勝手に傷つけていいものじゃない!」
「そう、ですね。私は私を守るため、そう……あなたのために、こうしたのです」
 青竜は青竜自身を守るために久暉を守り、そのために自分自身を傷つけるに至った。それはひどく矛盾していたが、由稀には青竜らしいと思えた。
 そして久暉もまた、そのことに気づいていた。返す言葉に窮して、肩を震わせる。己のふがいなさに、心で泣いていた。
「私は、竜族をあなたに捧げました。この意味が、いまならわかりますか」
 青竜の言葉はどこまでも穏やかだった。久暉は掴んでいた服からそっと手を離した。
「竜族、そうか、竜族を」
 呟いて、久暉は小さな声で笑った。血や砂に汚れた手で顔をおさえる。
「慶栖、お前も竜族か」
「はい」
 満たされた声で青竜はうなずく。腕をあげ、久暉の胸元を指さした。
「あなたとの術の繋がりは、好都合でした。私を術式完成の鍵にして、すすめることができた。私の力を注ぐことで、つまり、私の死であなたは本当に完治するのです」
 青竜は目を細めた。
「私によって、生かされるのです」
「慶栖……」
 久暉は拳を握りしめてうつむいた。
 炎を撫でた風が由稀の頬をすぎていく。燃料や金属部品の燃えるにおいが喉を焼いた。アシリカの神殿に吹いていた潮風より、ずっと弱々しく生臭い。喉の奥は血の味がした。
 由稀は青竜のやわらかな眼差しから視線をそらす。
『もう、あまり時間がありませんから』
 あのとき、真夜中の梅詩亭で術式の完成のことを言ったのだとしたら、青竜はきっと微笑んでいたのだろう。久暉の完治を心から喜んでいたはずだ。だが由稀があのときの青竜をはっきり思い出せないのは、見ていないからだけではない。
 青竜自身が、ぶれていたからだ。
 あるじである久暉を助けられる喜びと、そのために久暉から離れなければならない苦しさとに青竜は挟まれていた。微笑みも涙も、どちらも本当で、すべてではなかった。
 ならば視線の先にある青竜の笑みもまた、きっとすべてではない。
 彼は久暉とともに生きたがっている。
 由稀はあたりを見渡し、なにか治療に使えそうなものはないか探した。そんなものはないとわかりながら、それでも必死で目を向けた。
「あきらめるな、なにか、なにかあるはずだ」
 小声で自分を鼓舞し続ける。折れそうな心を叱咤する。諦めなければ道は続くと信じる。信じることが道を作ると信じる。
 由稀は詩桜の手を強く握った。
「あ……」
 砂の上に投げ出されたままの杖が目についた。手を伸ばせば届く距離にある。あの杖が東按の言っていたものならば、竜族の血をひく由稀にも使えるかもしれない。《気波動》を操れずとも、血が応えてくれる気がした。
 詩桜の体をおろして、杖のそばに立つ。ただの木切れの杖が、寄せる波のように揺らいで見えた。それだけではない。草原のにおい、土の湿りけ、砂地の風紋、透けた空と光のかたまり、そこから伝わるぬくもりの手触りが杖には凝縮され、押し込められていた。それはひとつの命で、世界のすべてだった。ちっぽけなはずの杖がとてつもなく神々しく、禍々しいものに感じられた。
 ためらいながら手を伸ばす。はたしてこの先にあるものが救いか破滅かわからない。それでも進むことが勇気のような気がしていた。壊してしまわないように、指先でそっと持ち上げる。
 触れた場所から何かが入り込んでくる。目には見えないいくつもの手が由稀の体に忍び込み、命のありかを探して駆けずり回った。体の内側が異物で埋められていく。かつて久暉がいた場所までも侵食され、あまりの気持ち悪さに由稀は杖を投げ捨てた。手放すときは骨や血を持っていかれるような感触があった。それがいつまでもこだまのように反響して消えない。由稀は呼吸を荒くして喉を押さえた。予期しない悲鳴が今にもこぼれそうだった。
 何事もなかったように転がる杖を睨みつける。由稀は息がおさまるのを待ちながら、杖が残していった知識と記憶を紐解いた。
「やっぱりこれが」
 東按の話していた杖は、やはり天地の杖のことだった。その力は医術に特化し、竜族の王により代々行使されてきたとも知る。むしろこの杖こそが王を定めてきた。王にふさわしい器を一族から選び出していたのだ。
 そして杖が最後に王とした男は。
『兄は武術には優れていましたが、それ以外はどれも苦手ですべて私が代わりにやっていました』
 由稀は炎の熱に目を細めた。
「青竜」
 すでに青竜の顔は蒼白で、かろうじて開かれている眼は死のほうへと滲んでいた。穏やかで儚く、冬の訪れを告げる初雪のようだった。
 杖の選択は竜族王家に受け入れられなかった。青竜は妾腹の子で正統の王家ではない。認めるわけにはいかなかった。青竜もまた杖に執着することなく、あっさりと引き下がった。そのことが杖を孤独にし、本来の姿を見失わせた。選ばれたはずの青竜にもやがて杖は扱いきれないものとなる。
 蛇は杖の影だった。いまの杖は孤独のうちで青竜を貪り、膨れあがり、手当たり次第に命を食い散らかしていた。拗ねて駄々をこねる子どものようだ。竜族を滅ぼしたのは青竜の勝手だけではない。杖もまた竜族が消え去ることを望んだのだろう。互いの澱みと利己心で結ばれた契約だった。
 杖は砂の上でじっとしていた。風に押されてときおり転がる。国ひとつを飲み干したとは思えない軽さだった。
 腕の奥に杖の感触がよみがえる。あのとき杖は何かを探していた。
「まさか、次代の?」
 杖は由稀に竜族王家の気配を感じたはずだ。混血である由稀は王にふさわしくないかもしれない。だが純血でないことが杖の中で凝る恨みの受け皿になれるかもしれなかった。もし杖のあるじになれたなら、杖を操ることができたなら、青竜を助けることができるかもしれない。
 選ばれるか、拒まれるか、許されるか。もし杖が由稀を他の竜族と同じと判断したときは、杖に喰われてやるしかない。賭けだった。
 息をのみ、もう一度杖へ手を伸ばす。不安も恐怖もずっと大きくなっていた。見透かされないよう、心の手綱を強くひく。揺らぐことは悪ではない。だが知られてはいけない。由稀は砂ごと杖を掴みあげた。
「く……っ」
 杖が内側へ押し入ってくる。先よりも強引に荒れ馬のように暴れまわる。由稀は奥歯を噛みしめてこらえた。ここで音をあげては賭けにすらならない。弱みは見せない。杖にどちらが上位か思い知らせる。そしておまえを救ってやると手を差し伸べる。
 くわえこんだ闇は深い。青竜の罪は重い。杖は無言で由稀に問う。どうやって救うのかと。その救済は由稀が罪の側へ堕ちるだけのことだと。由稀は思わず返答に窮した。その刹那、杖を持つ腕が内から裂けた。衝撃に片膝をつく。杖を睨みつける眼差しが怒りに濁っていく。
「おまえ」
 へし折ってやりたい衝動に駆られる。いけないと理性が叫ぶ。だが由稀は自分自身をとめられなかった。両手で杖を持ち、力をこめる。
 一瞬、世界中の音が消えた気がした。はっとして振り返ると、うずくまりながら詩桜が歌っていた。震える手で体を支え、ゆっくり立ち上がろうとしている。
「詩桜」
 立ち上がり、顔をあげた詩桜は泣いていた。歌を紡ぐたび涙が頬をすべり落ちていく。燃え盛るスウィッグの炎にあおられ、歌は天高く舞い上がった。伸びやかで澱みのない声は銀世界を覆う静寂の音色だ。どこまでも広がり、あまねく届く。痛みも悲しみも悔しさも、喜びでさえ寄せ付けない圧倒的な旋律だった。
 杖が鎮まる。あれほど荒れ狂っていたのが嘘のようだった。
「もしかして、歌が」
 かつて瞬は言った。詩桜の歌は世界に影響できるほどの力だと。
 龍羅飛跡で捧げた歌を、そして果南のために込めた祈りを思い出す。本来の力には及ばないのかもしれない。それでも乾いた世界に響く歌は本当の無力ではなかった。
 由稀の視線に気づいて、詩桜が歌を潜める。
「やめるな、詩桜。歌ってくれ」
「え……」
「いいから、やめないで」
 詩桜に短く言い置いて、由稀は青竜のほうへ一歩踏み出した。
 風のように、光のように、歌に包まれていく。杖は静かに耳を傾けていた。硬化していた殻を破って脱皮していく。木炭のように黒かった杖は、見る間に白さを増していった。触れる手のひらから慟哭が伝わる。それが杖のものなのか青竜のものなのか、由稀にはわからなかった。
 裂けていた腕が塞がっていく。杖は由稀のもとに跪いた。
「王、か」
 らしくない呼び名に、由稀は口元を歪めた。
 風と炎と歌が絡まりあって満ちている。
 青竜の上半身に突っ伏していた久暉が、何かに気づいてわずかに顔を起こした。
「慶栖……?」
 久暉の手が青竜の傷口へおそるおそる伸びる。ふるえる指先が心臓の上へ添えられた。久暉が目を瞠る。
「慶栖! 逝くな、慶栖!」
 悲鳴か怒声か。命令か懇願か。
 祈りのかたちに組み合わせた両手で胸をたたき、久暉は青竜のいのちを引き留めようとする。そのたびに青竜の肩が浮き上がった。由稀は久暉の腕を掴んでやめさせた。
「とめるな由稀! おれは、おれは」
「大丈夫、青竜を助けたいのはおまえだけじゃない」
 ひとりでは、何もできない。
 だから由稀は手を繋ぐ。笑顔を向ける。かなしいときは抱きしめあって夜を越える。
 ひとりでは、ない。
 この手がある限り、この目が見える限り、この体が動く限り、このいのちが連なる限り、由稀はひとりきりではなく、無力ではなかった。
 たとえ自分ひとりでは無力でも、そばにはいつも誰かのぬくもりがある。
 杖から情景が流れ込んでくる。森の濃いにおいがして、土の湿りけが伝わった。せせらぎの向こうには笑いあう声があり、栗色の髪を束ねた少女が水辺ではしゃいでいた。そばには静かに微笑む少年の姿がある。由稀はそれが青竜だとすぐにわかった。そしておそらく、少女は由稀の母だった。
 ぐっと杖を握りしめ、由稀は血まみれになった青竜を見おろした。
「青竜、おまえ母さんは殺してないんだな……」
 涙があふれそうに胸がつかえたが、目はひどく乾いていた。由稀は青竜の上へ腕を伸ばして杖を差しだした。青竜はぼんやりと由稀を見つめて、眼差しだけでうなずいた。
 息を整えながら、詩桜の歌に耳をゆだねる。次第に思考も感情も感覚も霧散して、肉体があることさえわからなくなった。ただ、目だけはしっかりとあけておく。何ものも見落としてしまわないように、失くしてしまわないように、この目に焼きつける。
 繋ぎとめられていた空が不意にそよいだ。
 杖は蛇には変化せず、青竜を覆いきれるほど大きな翼を広げて啼いた。