THE FATES

12.讃歌(7)

 梅詩亭に由稀らは戻っていなかった。青竜も詩桜もいない。紅は舌打ちをもらして、おりてきたばかりの階段を駆け上がった。スウィッグとともに待っていた羅依へ、小さく首を振る。
「誰もいない」
「みんなどこに」
「さあな」
 羅依の腕が腰へまわされたことを確認して、紅はスウィッグを走らせた。速度も高さも、制限を越えている。市街を真下に見おろしながら、地平線を目指した。
 部屋の回路を使って調べてみて、いくつかわかったことがあった。時間操作を解除しても完全にさざなみの空が戻らないこと。戻すためには天水と他の世界のあいだに生まれたひずみを修正する必要があること。その方法として神域の狭間へ働きかけることが有効であり、ふたつの世界を繋げるための術式を要することなどだった。
 水輝城の脇を掠めて飛び、王家廟の頭上を越えて砂漠へ出る。空と大地のあいだを走らせながら、紅は灰色の雲を睨みつけた。
 動くはずない灰色が揺らめいていた。紅自身が移動しているからではない。空はたしかに渦巻いて、ゆるやかに靡いている。天水の時間がゆっくりと動き出していた。
 天水の時間に打ち込まれた楔を、瞬が断ったのだ。
「くそっ」
 引きずりおろそうとした神は、もうそこにいなかった。
 紅の体内であれだけ暴れた龍仰鏡は、何ごともなかったようにすっかり静かになっている。おそらく発作のように苦しくなったあのときに、時間操作は解除されていたのだろう。しかも以前のようにただ雨が降るだけではなく、完全に解放されている。そう、鏡が醸していた。
 ふっと背中に風がさわる。紅は片手をスウィッグから離して、ほどけかけた羅依の手を強くつかんだ。
「しっかりしろ、羅依!」
「う、うん」
 術者が治療をしたとはいえ、十日間も眠り続けていたのだ。羅依の手が心許ないのも仕方なかった。
 紅はベルトを抜いて羅依の両手首へ巻きつけた。
「痛いけど、しばらく我慢しろよ」
 うしろでうなずく気配があった。紅はさらに速度をあげた。
 龍仰鏡が示していた場所は、市街から馬で二日ほどかかる。このスウィッグなら、日暮れには間に合うはずだった。到着した先で壊れてしまっても構わない。それまで走ってくれと、紅は祈った。
 紅には焦りがあった。
 放棄された部屋の回路、ふたたび時を刻みはじめた天水、そして存在を感じさせないほど鎮まり返った龍仰鏡。それらがすべて、ひとつのことを語っている気がしていた。
 おそらく瞬は羅依を襲った犯人に心当たりがあり、始末をつけに行ったのだろう。瞬の強さも鬼使のおそろしさも、その始末がいかに困難かも、紅にはわからない。だが瞬の覚悟だけは感じられた。
 背中から羅依の体温が伝わる。これは瞬が貪るべきぬくもりだ。
「置いていくなよ、バカが」
 呟きは風にもまれて、紅自身にも聞きとれなかった。
 空は砂漠を映したように波打って、雲の薄い部分からは光がこぼれていた。天から光がおりているはずが、不思議と大地から光が奪われているように思えて、紅は言葉にならない声をあげた。
 瞬に会ったら一発、いや十発ほど殴らなければ気が済みそうになかった。
 スウィッグの操作盤で現在地をたしかめる。もう、近い。
「なあ紅、あれ」
 紅の肩へ顎をのせ、羅依が言った。だが何も見えない。
「わかんねーよ。お前ほど目がよくない」
「地平線のすぐ手前、おかしくないか」
 言われた場所を、目を凝らして見る。紅はやがて眉をしかめた。
「なんだ?」
 そうしているあいだにも、地平線だった場所は大地となって近づいてくる。遠目には、大地に引かれた一本の黒い線だった。だが近づくほどにその細部がはっきりとした。
「地割れだ」
 亀裂は川のように蛇行しながら龍羅飛跡のほうまで続いていた。紅はスウィッグの高度と速度を落とした。地割れを見るためではなく、そこが紅の目指していた場所だった。
 隆起した大地に沿って走り、ひときわ崩れている部分を見つける。
「あっ」
 羅依が声をあげ、束ねた両手で紅の腹を締めつけた。
「紅、とまって」
 乞われるままに、紅はゆっくりとスウィッグを下へおろした。機体から噴きだす風を受けて、砂が舞い上がった。スウィッグが停まるやいなや羅依が走り出そうとするので、紅は急いでベルトを外してやった。
 まだ浮いたままのスウィッグから転げ落ちるようにして羅依は走り出した。紅はかけていた眼鏡を外し、あたりの砂をじっと見つめた。ところどころ、かすかに色が違う。そこの砂を靴先で掘ってみると、黒ずんだ砂が出てきた。
「血痕」
「紅、紅!」
 羅依が千切れんばかりの叫びをあげた。振り返ると、亀裂の淵に座りこんで、手のひらには血で汚れた煙草をのせていた。
 それは瞬の煙草で間違いなかった。
 彼はたしかにここにいた。血痕もおそらく彼のものだ。だが本人の姿はどこにもない。鏡へ問いかけても、虚空へ呼びかけるようだった。
「瞬、どこ」
 煙草を握りしめて、羅依が亀裂を覗き込む。いまにもそこへ身を投げてしまいそうで、紅はあわてて羅依を引き寄せた。
「危ないだろ!」
「でも瞬が、瞬がいない! 捜さないと!」
 羅依は不揃いに短くなった髪を揺らして、紅の腕から抜け出そうとする。涙も忘れ、我も忘れ、ただ瞬だけを求めていた。
「やだ、瞬は、瞬はどこにいるの。瞬を捜さなきゃ。決めたんだ、あいつをひとりにしないって、ずっと瞬のそばにいるって。だから、だから……!」
「羅依!」
 紅は羅依の頬を平手で打った。羅依は呆然と紅を見つめ返した。
「紅」
「しっかりしろ羅依。あいつは簡単にくたばったりしない」
「だったらどうして。どうしてどこにもいない。どうして、あたしはひとりきりで……」
「わからない」
 こんなとき、由稀なら羅依を傷つけることなく宥めることができるだろう。久暉なら理性と情熱で勇気づけるだろう。瞬ならば抱きしめてやるのだろう。どれも紅にはできないことばかりだ。
 羅依の手を引っ掴み、紅は自分の鼓動を聞かせた。
「ふたつ、音がするだろ」
「え」
「俺の心音と、鏡の鼓動だ」
 手のひらではわからないらしく、羅依はそっと耳を寄せた。
「聞こえる」
「だから、あいつは生きてる」
 羅依は顔をあげた。紅は深くうなずく。
「さっき調べただろ。鏡は元の所有者にどこまでも従うものらしい。もしあいつがいないなら、鏡もきっと無くなってる。それがまだあるってことは」
「生きて、る」
 涼しげな羅依の目元から涙がこぼれる。
 鏡があるからといって、瞬が生きているとは限らない。紅の体に鏡が残ることを瞬が望んだなら、瞬の生死に関係なく鏡はあり続けるだろう。
 希望は罪かもしれない。それでも紅は、他に羅依を救う方法を知らなかった。
 紅もまたこの仮説を信じたかった。
 かつて殺したいほど憎かった。龍羅飛の血を繋いだことを恨み、茜をひとりきりにしたことに憤り、生き写しだとされた容姿を嫌った。
 いまもその気持ちがなくなったわけではない。そこに留まるのをやめたのだ。それなのに勝手に死なれてしまっては、紅はまた憎しみのなかで立ちどまってしまう。天水の時間は流れても、紅の時間がとまってしまう。
 そんなことはさせない。
 紅は羅依から手を離し、ひとり立った。
 地平線が赤や白や黄に染まっている。耳元を過ぎていく風が、ひゅうひゅうと啼いていた。日が暮れようとしている。うまれた光の下で、ひずんだ世界が高らかに歌い、讃えていた。
 長かった一日の終わりと、新しい一日の始まりを。

12章:讃歌・終