THE FATES

13.青蒼

 取り分けておいた賄いを盆に載せて、由稀は階段へ足をかけた。
「由稀、お茶忘れてる」
 うしろから詩桜が駆け寄ってきて、隙間へ茶器を置く。
「ありがと」
「今日は土鍋だから重いでしょ。大丈夫?」
「平気平気、おとこのこだから」
「じゃあ、よろしくね」
 詩桜は階段の三段目から飛び降りて、走り去った。後ろ姿を見送ってから、由稀はあらためて階段をのぼった。
 一段あがるごとに、匙と小皿がぶつかって音がした。階段は小舟を漕ぐときのように、ぎっぎっと軋む。開け放った窓からは外で遊ぶ子どもの声がして、綿のようにゆるやかな風が流れ込んでいた。
 あれから二月が過ぎた。
 変わってしまったこと、変わらなかったこと、失くしてしまったもの、手に入れたもの。それぞれを両手にのせてみても、量れるものではなかった。だが、多くのものを失くしてしまった気がしてならない。
 瞬の行方はいまもまだ知れない。生きているかどうかもわからない。しばらくのあいだ羅依はまったく起きられなくなり、最近になってようやく体を動かせるようになった。髪もきれいに揃えてやると、久しぶりにはにかんだ。なぜここに瞬がいないのか、そう思うと由稀はともに鏡を覗くことはできなかった。
 立ち止まろうとする感傷を振り切って、由稀は一段飛ばしで階段をあがった。盆を片手に持って、扉をあける。
「よお、調子はどう」
 枕に背を預けながら寝台で本を読む男に、由稀は笑いかけた。男は鋭い瞳をやわらげて応える。
「僕より、彼のほうがお疲れのようです」
 男の視線を追って見ると、久暉が机にもたれかかって眠っていた。天水の言葉をすっかり覚え、十日ほど前から店の手伝いをするようになった。まだ慣れないのか、休憩時間にはうたた寝をしていることが多い。
「メシ置くとこねーじゃんか」
「そこの椅子の上でいいですよ」
 男は読んでいた本を閉じ、上品に微笑んだ。由稀はわずかに唇を歪めてうなずいた。
「あんまり安定よくないから、気をつけてな。青竜」
「はい。ありがとうございます」
 胸元にかけて巻かれた包帯が首からのぞいている。二月たったいまもまだ、傷口は塞がりきらず医師からは絶対安静と言われていた。食事を載せた盆を丸い椅子へ置くと、由稀はふと自分の手を見おろした。杖を操ったときの感触は、もう残っていない。だがそこにはたしかに杖があるのだった。
 青竜は天地の杖と詩桜の歌によって、いのちを繋いだ。だが留められたのはいのちだけだった。昏睡状態から目覚めたとき、彼はすべての記憶を失っていた。かろうじて言語は覚えていたものの、自分のこと、術式のこと、竜族のこと、仲間のこと、そして久暉のこと。青竜は何を訊かれても悪びれることなくわからないと答えた。
 もし青竜が竜族王家と関係ない生まれであったなら。もし青竜が久暉と出会っていなかったなら。青竜はいまのように微笑む男だったかもしれない。その点で、ここにいるのはたしかに青竜なのだろう。
 だがやはり、これは失いなのだとも由稀は思う。
 起きる気配のない久暉の肩に、そっと毛布をかける。おそらく久暉はいつの日か青竜の記憶が戻ると信じているのだ。規則的に繰り返される寝息を聞きながら、由稀は久暉の逞しさに憧れた。
「きれいな色ですよね」
 朗らかな青竜の声に、由稀は顔をあげた。青竜は久暉を見つめていた。
「ああ、こいつの髪の色か」
「瞳もです。いまは見えませんが」
 そう言って細められた青竜の眼差しは、知らない人のもののようで、やはりどこまでも青竜だった。
 ああそうか、と由稀は胸のなかで呟いた。
 たとえ記憶を失くしていても、久暉にとって青竜は何も変わらないのだ。鋭く静かで、しかし燃えるようなこの眼差しが失われないかぎり、青竜はそこにいるのだ。
「どこまでも澄んで青く、とても近くにいるのに果てしなく遠い」
 青竜は肩越しに窓の外を見あげて呟いた。その横顔に笑みはない。
「彼は空のような人ですね」
「かもな」
「そうあってほしいと思います。彼には高みがよく似合う」
「ああ」
 窓のそばに立ち、空を仰ぐ。由稀は眩しさに目を細めた。
「いつもそばにいてくれる色だ」
 天水の空は波打って、青く、蒼く、きらめいていた。

THE FATES vol.2・終