砂の歯車

01

 闇で彩られた世界に、茫洋とした赤い魔物が忍び寄る。体の大きな魔物は長い舌を伸ばし、闇を舐め回している。世界は軋むような叫びをあげ、いつしか耐えかねてひび割れてしまった。欠けた闇は脆く、亀裂からは白煙が流れ込んだ。胸の奥まで煤けるような、焼け焦げた臭いがする。
「隊長は、隊長はどこへ行ったんですか」
 知らない声が早口で言った。若い男の声だ。すぐ近くで話しているようだが、音が拡散して聞きづらい。
「落ち着かんか。ハルの行方を知りたいのは、こちらも同じだ」
 違う声がした。語尾に訛りがある。
「随分やられたな。ハルの捜索は他に任せて、お前は治療に下がれ」
「そんな、出来ません。隊長は、僕の命より大切な人です」
 闇の内側は白煙で充満していた。赤い魔物は揺れながら踊っている。
 大切な、人。
 少女は瞼を押し上げた。視界が滲む。砂埃と黒煙が舞い上がり、喉の奥はざらついていた。声を出そうにも、空気が洩れるだけだった。周囲では大勢が慌しく動き回っていた。だがその騒々しさも壁の向こうのことに感じられる。全てが外側で流れている。ここもあの闇の内と大差ない。
 ただ、息苦しいほどに蒸している。
「おい、何も知らないのか」
 焦燥に色めく深緑の瞳が、少女を見下ろしていた。朝露に濡れる苔のような輝きだった。瑞々しく、生々しい。
 指先を掠る服の手触りに、記憶が逆流する。視界を覆っていた白煙が掻き消されていく。月もなく、暗い夜だったはずだ。だが空は明るく赤く染まっている。
 笑っている。赤い魔物は踊り狂い、夜空をしゃぶって、笑っている。少女は魔物の透けた体の奥に、見慣れた教会の影を見とめた。炎は、神を犯し、聖域を荒らし、少女の全てを奪うべく、空に向かって牙を剥いた。闇の殻が完全に崩れる。
 少女は喉を震わせ、命を絞る叫びを上げた。

 * * *

 岩肌に暗い穴があいていた。辺りには人気がない。
 男は筒型の燭台を口に咥え、穴の中へ潜り込んだ。爪先で足元を探って降り立ち、筒に火を灯す。赤みを帯びた明かりが内部を薄暗く照らす。道は広がりながら続いていた。肌に触れる空気は清浄で冷たい。耳を澄ますと地上の風音が聞こえた。まるで胎内にいるようだ。血潮と鼓動が男の世界を占めた。
 道は曲がる。岩壁は光に濡れていた。男は目線にある窪みに燭台を挟み、角を曲がった。先には大きな砂溜まりがあった。天井は網目状に木の根が張っていた。隙間から空が覗く。風に吹かれて砂が舞い込む。砂は光りながら落ち、煙のように揺らいだ。
 男は青い瞳で砂溜まりを見た。象牙色の細かい砂の中には、鉄屑や銃器が埋もれていた。男は砂の上に降りる。足が砂に沈む。不発弾に注意しながら、男は銃器を物色した。大抵の武器には砂が詰まっている。そのままでは使えないほど損傷の激しい物もあった。男は持てるだけの銃器と鉄屑を拾い集めた。
 砂溜まりの奥に一際大きな鉄材があった。戦車の一部のようだった。強い熱で端は爛れている。男は担いでいた荷物を一度砂の上に降ろし、両手で鉄材を持ち上げた。相当の重さで、全体の半分以上が砂にめり込んでいた。この大きさでは入り口を通らない。男は落胆の息をついて、持ち出すのを諦めた。
 ゆっくりと壁に立てかけ、それまで鉄板があった場所に視線を転じた。砂は窪みを埋めようと流れていく。地面がならされていくにつれて、地中から浮かび上がってくるものがあった。男は目を疑った。砂の中から白く細い腕が出てきた。人だ。旅装束をまとった、見かけない顔の少女だった。服はひどく血に濡れていたが、肌にはまだ赤みがあり、男には死んでいるようには見えなかった。
「おい」
 呼びかけても反応はなかった。男は少女に背を向けて、集めた銃器を肩に担いだ。燭台まで戻り、服についた砂を軽く払う。その拍子に腰に差していた銃が弾かれた。黒い銃は回転しながら坂を滑り、砂溜まりの上へ落ちた。男は呆然と銃を見つめた。
 銃を拾いに戻り、男は少女を見下ろした。膝から下はまだ砂に埋もれている。上から降る砂が止むことはない。彼女が生き埋めになるのは時間の問題だった。
 頭上で大きな衝撃音があった。大量の砂が男に降った。身を屈めて、腕で目を守る。首筋をさらさらと砂がこぼれて、続く砂がないことを知る。男はゆっくりと目を開けた。砂に落ちていた白い光がなくなっていた。見上げると、空が塞がれていた。砂溜まりは、男が持ち込んだ燭台で赤く照らされた。
 足元の少女は腰まで砂をかぶっていた。男は自分の足を抜き、少女を砂から引き上げた。

 男は少女を家まで運び、町にたった一人の医師を呼んだ。診察の間、男は作業場で銃の分解を始めた。慣れた手つきで台の上に部品を並べる。汚れを拭き、素早く組み立てる。海のように青い彼の瞳には、黒い塊しか映っていなかった。
 足音に、顔を上げる。背後で扉が開いた。
「大丈夫だ、エリク。助かるだろうよ」
 白髪まじりの医師は目を細めて言った。
「随分と頑丈なお嬢さんだ。長いことこの仕事をやっとるが、あの傷で生きとるなんぞ、奇跡だな」
「そうか」
 エリクと呼ばれた男は席を立って、銃を腰に挟んだ。居間へ出て、木の扉を見つめる。老医師は荷物をまとめて上着をはおった。
「だが、しばらくは大人しくしておいた方がいい。私のところにも定期的に来させなさい。傷は浅いが、相当血を失っている。砂もかなり飲んでいた。しばらくはここに留まって治療するのがよかろう。そう伝えておけ」
「おい、ロブ。俺から言うのか」
「お前さんが拾ってきたんだろう。手を差し伸べたのなら、最後まで面倒を見ろ」
 ロブと呼ばれた医師は、下がり気味の目尻をさらに下げて笑った。エリクは不服げに口を閉ざした。全てを見抜いたようにロブはエリクの腕を軽く叩き、玄関へとゆっくり歩む。
「どこから来たのか知らんが、あの砂溜まりに落ちたのなら西の砂漠を越えてきたんだろう。あんな年頃の娘がするようなことじゃない。何か理由があるんだろう」
 ロブは玄関扉を押し開いた。町の音が部屋に流れ込む。エリクは頭を掻いてため息をついた。
「おせっかいな爺さんだ」
「それが爺の楽しみだからな」
 大きな声で笑い、ロブは手を上げて去った。部屋の中に再び静寂が訪れる。
「本人の希望もあるだろうに」
 エリクは呟いて、居間に戻った。散らかった机を片付け、寝室の扉を控えめに叩く。返事はなかった。エリクはそっと扉を開けた。
 寝台には燃えるような赤髪の少女が寝息を立てていた。砂が詰まって苦しいのか、幼さの残る顔を時折歪める。肌は白砂のように透き通り、砂漠の民や遊牧の民には見えなかった。
 壁に凭れて自分の行動を振り返る。なぜ彼女を助けたのか、エリクは明確な理由が感じられなかった。
 いまさら、なぜ人を助けるのだろう。
 込み上げる自嘲を飲み込んで、エリクは部屋から出ようとする。背後から呻き声がした。エリクが振り返ると、少女が体を揺らして激しく咳き込んだ。エリクは少女のそばへ寄り、水差しを渡した。砂を吐くには水が要った。
 少女の冷えた手に水差しを握らせ、唇へ誘導する。少女は救いを求めて水を飲んだ。
「吐け、全部吐き出すんだ」
 エリクは床に置いてあった空の樽を引き寄せ、少女の背中をゆっくりさすった。掌に触れる背骨の感触は、心許ないほど華奢なものだった。

 少女は肩を上下させて、荒い息を繰り返した。寝室にあった水を全て飲み干し、再び嘔吐した。そしてようやく掠れた息を出した。
「ここ、どこ」
 艶を失った声は、見た目より大人びていた。少女はエリクを見上げた。彼女の薄茶の瞳は、嘔吐の苦しさから涙が溢れていた。エリクは少女の問いに答えず、部屋を出た。
「ちょっと」
 少女はエリクの背中を追って寝台から降りる。体を真っ直ぐにしようとすると、激しい痛みが体を貫き、視界が平衡感覚を失った。目眩で体が傾ぐ。少女は何かを掴もうと手を伸ばした。その手をエリクが強く引いた。
「あ」
 少女の言葉を遮るように、エリクは綿のようにやわらかい布を押し付けた。
「とりあえず、顔を拭け」
 エリクは少女の体を支えながら、ゆっくりと寝台に腰を下ろさせる。少女は頷いて顔を拭った。
「あの……迷惑かけて、ごめんなさい」
「傷は浅いそうだ」
 エリクは煙草に火をつけて、不遜な顔で少女を見下ろした。
「砂溜まりから連れ出したのは俺だが、手当てしたのは医師のロブだ。礼を言うならロブに言え」
「でも」
「砂溜まりは俺の大切な場所だ。流砂に飲まれて、後々臭いが上がってきても困る」
 静かな声で言って、エリクは煙を吐いた。天井に薄衣のような白い煙が漂った。
「砂溜まりって、なに」
 少女は腹立たしさを堪えて小さな声で言った。
「大砂漠の真ん中にある、吹き溜まりだ。ここには色んなものが流れ着く。もちろん死体が落ちてくることも珍しくないが、大体は獣に食われて、殆ど骨になっている。腐臭は上がらない」
 寝台の横にある小さな机に寄って、エリクは灰皿を手に取った。
「そんな軽装で大砂漠を越えられると思ったか」
 エリクの言葉に少女は自分の身なりを見直した。綿糸で編まれた丈長の上着に革の帯を巻き、裾からは伸縮性のある服が両脚に張り付くようにして覗いていた。床には膝まである革靴が、枕元には淡い色の厚地の外套が無造作に置かれていた。ただし上着と外套の背中は裂け、赤く染まっていた。
「これで軽装なの」
「何もかも」
「じゃあ、甲冑を着けろとでも言うの。それこそ暑さで倒れてしまうわ」
 少女の反論に、エリクは一寸も動じなかった。冷たい青の瞳で少女を見下ろす。少女は怒りを言葉に出来ず、唇を噛んだ。握った布のやわらかさが、彼女の背中を後押しする。
「越えなければいけないの」
 麦色の瞳から、涙が落ちた。
「どうしても、この砂漠を越えて東へ行かなければいけないの」
「だったら、この町と南方を繋ぐ定期便を使え。それから砂漠を避けて東へ行くんだな。車は多少揺れるかもしれないが、何より安全で早い」
「それじゃ、意味がないの。砂漠を越えて東へ行きたいの」
 何度拭っても涙は後から溢れた。エリクはそれを見て、煙とため息を吐いた。
「好きにしろ」
 灰皿に煙草を押し付ける。エリクは少女に手を差し出した。少女は目を丸くした。
「それを置いて、さっさと出て行け」
「え」
 少女は呆気に取られてやわらかい布を体から離した。エリクは少女の手から布を引き抜いた。まるで何事もなかったように部屋から出て行く。その背中を見つめて少女は叫んだ。
「最低……!」
 凍てつくような痛みが一瞬で吹き飛ぶ。壁の向こうからは返事どころか物音一つしない。少女は業を煮やして、靴に足を突っ込んだ。
「出て行くわよ、そうすればいいんでしょ」
 靴紐がなかなかうまく結べなかった。少女は苛立って紐が解けたまま立ち上がり、外套を掴み取った。それを翻してはおり、荷物が少ないことに気付く。
「え、あれ」
 体いっぱいに膨らんでいた腹立たしさは急にしぼみ、不安が芽を出した。肩からかけていたはずの鞄が見当たらなかった。少女は部屋の中をくまなく捜したが、寝台と小さな机と灰皿しかない。少女は壁の向こうを睨みつけた。
「ちょっと!」
 部屋を出て、居間に向かって声を荒げる。しかしそこには誰の姿もなかった。見回して、部屋がもう一つあるのを見つける。脱げそうになる靴を引きずり近寄ると、扉が薄く開いていた。そこからそっと中を覗く。寝室より一回り狭い部屋には、所狭しと銃器が並べられていた。床には鉄板や鉄屑が積み上げられている。正面にある小窓から光が差し込み、部屋は壁の薄緑色に染まっていた。少女は息を漏らした。
「なに、これ」
 少女は吸い込まれるように部屋へ踏み込む。空中を漂う砂や埃が光に照らし出される。部屋の中央には使い古した木の机が置かれ、上には見たことのない工具が散乱していた。灰皿には吸殻が山になってあった。
「勝手に入るとは、行儀のいいことだ」
 背後から声がして、少女は肩を震わせた。振り返り、上目遣いに見上げた。
 エリクは虚を突かれ言葉を失った。血の気のない少女の顔に、狂気じみた好奇心が滲んでいた。
「すごい部屋。あなた、商人か何かなの」
「いや。俺はただの修理屋だ」
「武器を専門に?」
「需要があるだけだ」
「戦地から流れてきたものね。あそこにあるのは、まだ動かないの。いくら払えばやってくれるの」
 少女の瞳に大人びた寂しさがよぎる。エリクはそれを見逃さなかった。
「武器を持ってどうするつもりだ」
 エリクの問いに少女は顔を背け、貝のように口を閉ざした。エリクは少女の前に、手に持っていたものを差し出す。少女はそれを手にしてエリクを振り返った。
「お前の荷物だ」
 エリクは少女に背を向けて居間へ戻っていった。
 少女は手の中に視線を落とす。渡されたのは、少女が下げていた鞄の紐だった。袋部分は千切れて無い。砂の色に似た生成りの布地は、ほんのり紅色に染まっていた。妙に湿っている。
「薬品に浸けてみたが、取れなかった」
 そう言ってエリクは居間にある椅子へ座った。小さく、金属のぶつかる音がした。エリクの手元から紫煙が上がる。少女はそれを見ながら、鞄の切れ端を嗅いだ。刺すような臭いがした。
「もっと汚れてたのね」
「ああ。真っ赤だった」
「きっと、鞄が身代わりになってくれたんだ」
「そうか」
 エリクの声は静かだった。少女はそこに埋めがたい距離を感じ取った。心の中に砂が流れる。隙間からこぼれていく。少女は自分の幼さを恨んだ。手の中に布を握る。湿り気が掌の中で捻れた。
「ねぇ、いくらで修理してくれるの」
「子供に売る銃はない」
 エリクは煙草を指で弾いて灰を落とす。少女はエリクの背中を睨みつけた。
「きれいごと言わないで。私の町にいた男の子は、みんな銃を持たされて出て行ったわ。いつ暴発するかもわからないような銃をね」
「それがどうした。同情しろとでも言うのか」
「違う。それが現実なの」
 少女はエリクの腰に銃を見つけた。
「あなただって、身を守るでしょう」
 部屋の隙間を風が縫う。勢いよく吹く風は、笛のように音を奏でた。窓には砂礫が当たり、細かな律動を刻む。砂漠特有の突風だった。
 衣擦れの音が風を押しやる。エリクは廃材で作った灰皿に煙草を押し付けた。
「金二百」
 エリクは振り返った。不揃いな黒い前髪の間から、青い目が覗く。その青は、凍えるほどに澄んでいる。少女は恐怖を感じると同時に、強い興味を抱いた。
「い、いいわよ。二百でも三百でも」
 少女は胸を張って勢いよく言った。エリクは少女から顔を隠して失笑した。
「即金でな」
 顔を上げたエリクは、催促するように少女に手を差し出した。少女は鞄の紐をその上に置いた。
「は」
 眉をひそめて、エリクは少女と紐を交互に見る。
「何だ、これは」
「私の今の全財産。なんならこの服も脱ごうか」
 少女は悪びれもせずに言い放った。
「しばらく私を雇って。そして賃金から引いていって。家事はもちろん、修理で手伝えることがあれば、何でもやるわ」
「勝手なことを」
 エリクの静けさは激情の一端だった。だが少女には引けない理由があった。それを心に刻み込んで、少女は自分に鞭打った。
「どうしても、やらなければいけないことがあるの。お願い。傷が治るまででもいい。修理しきれなかったものでもいい。だから、お願いだから私をしばらくここに置いて。そして銃を譲って」
 少女は紐を持つエリクの手を両手で包み込んだ。込み上げてくる涙を悟られまいと、深く俯いた。床板の継ぎ目が滲んで一本の木になる。
 エリクが肩を落として息を吐いた。
「わかったよ……」
「え」
 少女は、思いのほか穏やかなエリクの声に驚いた。顔を上げた先には、眉を下げて微笑む青の瞳があった。少女は薄氷のような煌めきに見とれた。エリクは少女の手に鞄の切れ端を握らせる。
「言っても聞かないんだろう。だったら好きにしろ」
「本当にいいの」
「俺もそこまでして子供を泣かせる趣味はない」
「子供じゃないわ」
 少女はエリクを睨みつける。
「でも、ありがとう」
 たとえ相手が根負けしたのだとしても、受け入れてもらえたことが少女には嬉しかった。頬を上気させて、手を差し出す。
「私はニーナ」
 怪我の痛みも今のニーナには感じられなかった。
「エリクだ」
 伏し目がちにエリクは呟き、こすれるような握手を交わして席を立つ。ニーナの横を逃げるようにして抜けて、エリクは作業場へ入っていった。中からかすかに、金属のぶつかり合う高い音が届く。ニーナは彼の煙草の匂いを思い返した。母の作った砂糖菓子の匂いに似ていた。両手で包んだ彼の手の感触を思い返す。それは優しく髪を撫でてくれた父に似ている気がした。無愛想だが、ニーナは不思議とエリクを怖いと思わなかった。逞しい背中も、心強く感じられた。
 ニーナは持っていた鞄の紐を、革の帯に括り付ける。視界が霞み、ニーナは目をこすった。しかし足元がやわらかくうねり、自分の手と顔の距離感が掴めなくなる。体中の水分が一気に爪先から抜けるような感覚のあと、ニーナは床に倒れた。
「おい」
 突風は、いつしか止んでいた。