砂の歯車

02

 手に持った燭台を柱時計の内部に近付けて、エリクは目を凝らした。炎の熱が頬を焼く。額からは汗が流れた。
「どうだい、直るかい」
「うん」
 エリクの返事は曖昧なもので、そばに立つ中年の女は自分の手の甲を何度も撫でた。彼女は町に一軒しかない宿の女将だった。柱時計は宿の玄関に飾られている。客を迎えるために、大事な物だと言った。
「かなり古い物のはずだよ。なんたって、じいさんの代からあるんだもの。あんたの三倍くらいは生きてるんじゃないかねぇ」
「うん。おい、ニーナ」
 燭台を机に置いてエリクは汗を拭った。ニーナが作業場の扉へ顔を出す。時計の主は、目を丸くした。
「ハースさん、いつの間に結婚したんだい」
「は」
「や、違います! 私はお手伝いしてるんです」
 ニーナは顔の前で大仰に手を振った。
「だって、そんなことしたら犯罪ですよ。この人、私の倍以上おじさんですもん」
「おい、ニーナ」
 エリクは両手に工具を持って、顎で燭台を指した。ニーナは慌てて燭台を持つ。
「どの辺り」
 時計を覗き込みながら、ニーナはエリクの横顔を窺う。精悍な頬を汗が伝う。青の眼差しは何も言わなかった。ニーナは燭台を両手で持って、灯りが揺れないようにした。腕をあまり伸ばすと背中の傷が痛むので、肘を緩めた。胸を熱が這い上がってくる。吸う息は熱風になった。
「そうだよねぇ、さすがにそれはないよねぇ」
 女将は頬に手を当てて笑った。
 作業場の窓が振動に揺れた。突風の音ではない。ニーナは肩を竦めた。手元がぶれる。すぐさま灯りの位置を戻す。エリクからの咎めはなかった。
「今のはかなり近かったねぇ。流れ弾が風に乗ってこないことを願うよ」
「そんなことがあるの?」
 ニーナは目だけを動かして問う。女将は虫に刺された程度に眉をひそめた。
「あるさ。ごく稀だけどね。ここも一応西の領地なんだから、しっかり守ってほしいよ」
「だったら、市民権を獲得できるよう真っ当に生きることだな」
 時計から顔を上げずにエリクが呟いた。女将は口を大きく開けて笑った。
「それが出来りゃ、こんなとこで時計の修理なんてしてもらわずに、都会で新しいものを買うよ」
 女将が笑うと、ふくよかな胸や腹が上下に揺れ、前掛けの裾が踊った。ニーナはそれを見て、微笑した。この町は戦地にもっとも近い場所にありながら、どの町よりも明るかった。ニーナの目には人々の毎日が輝いて見えた。故郷を思い返し、人知れず笑顔が歪む。
「ニーナ」
 呼びかけられてニーナは肩を震わせた。視線を向けるとエリクが見つめていた。硝子玉のように透き通った青い瞳に、ニーナは戸惑い黙り込んだ。
 エリクは恨めしそうにニーナの手元を睨んだ。
「見えない」
 エリクが指す時計の内部は真っ暗になっていた。ニーナはエリクから視線を逸らして、彼の手先を照らした。
「ああ、そういえば」
 引っ詰めた髪をなぞり、女将は思い出したように呟いた。
「近々、お役人が巡察に来るそうだよ」
「どうして」
 ニーナは横目で灯りの位置を見ながら、女将に顔を向ける。目尻や口元には皺が寄っていたが、よく見ると顔立ちのはっきりとした美人だった。女将はニーナの明け透けな視線に微笑を返す。
「表向きは市民権の審査とか治安維持だけどね、実際はおいしい話がないか、探りにくるのさ」
 言葉尻とは裏腹に、女将の声音は穏やかだった。
「あんた、砂溜まりは知ってるかい」
「うん、なんとなく」
 エリクから知り得た情報が全てだが、ニーナは経緯を説明するのが億劫で話をあわせた。頬にエリクの視線を感じた気がした。
「あれと同じさ。ここは西と東のちょうど真ん中。それに戦場にも近い。自然と物や情報が流れてくるのさ。だけどそれ以上に危険もあるだろう。役人は本来なら常駐するべきなんだがね、数ヶ月に一度くらいしか来ないんだよ」
「不便じゃないの」
「そうさねぇ。そういうこともあるけど、ずっとここにいられちゃ向こうの話が聞けないしね」
 女将は手を払って大声で笑った。赤い唇から覗く歯には、水晶のような透明な石が埋まっていた。ニーナは驚いて目を逸らした。
 エリクが大きく息を吐いた。
「原因はこれだな」
 エリクは肩越しに女将を振り返って、目顔で呼んだ。女将は前掛けを軽く持ちエリクの後ろから時計を覗き込む。火箸に似た工具の先には、歯車が重なってあった。
「そりゃ、時計だから歯車くらい」
 女将は燭台から滲む熱を嫌い、曲げていた腰を直した。エリクは丁寧な手つきで台の上に時計を置き、割れ物を触るように内部から小さな鉄製の杭を抜いた。二重構造になっており、歯車の軸と時計の針を繋ぐ役割を果たしていた。
「こいつが緩んで空回りしていた。すぐ直る」
 汗を拭って、エリクは晴れやかに言った。机の引出しから似た材質の鉄屑を取り出し、やすりで削る。ニーナは彼の手に見とれた。彼が鉄を持つと、それは鉄ではなくなるようだった。粘土でもこねているように、すぐに形を変えていく。最初は鉄の棒切れだったものが、丸みを帯び、溝を引かれ、光沢をもって輝きだす。ニーナは、エリクの手にかかる鉄は幸せだと思った。
 エリクは削った部品を色々な方向から何度も確かめて、ゆっくりと歯車に嵌めた。一度で形が合った。秒針の音が響く。女将の口からため息が洩れた。
「さすがだねぇ」
「こんなところの修理で申し訳ないけどね」
 そう言ってエリクは口を歪めた。それは彼なりの笑顔だった。
「嫌だよぉ。聞いてたのかい」
 女将は大声で笑ってエリクの肩を叩いた。
 エリクは手袋の指先を噛んで脱ぎ去った。横にあった蓋を穴に合わせて閉じる。ニーナは作業の流れを見て灯りを消した。焦げた臭いが喉に絡んだ。エリクは蓋を軽く固定して、柱時計の正面を女将に向けた。
「うん、問題ないね」
 確認を得て、エリクはしっかりと蓋を閉めた。
 女将は手間賃を払い、時計を布に包んで帰って行った。その背中を見送って、ニーナは自分まで嬉しくなった。たかが部品一つ噛み合わないだけで、時計の命は途切れていた。それをエリクはまるで神の所業のように繋ぎ合わせる。
 もしも自分の人生に歯車があるなら。
 ニーナは突風の気配を感じて扉を閉めた。取っ手に手をかけたまま立ち尽くす。
 歯車があるなら、その杭は擦り切れて小さくなっている。どんなにねじを巻いても回りだすことはない。力が加わっても無意味に揺れるだけだ。
 闇に包まれた記憶の中で、恐怖と憎悪が牙を剥く。たった一晩だ。月のない蒸した夜に、ニーナの歯車は奪われるようにして動きを止めた。
 扉の取っ手を握る手に、力が篭もる。何も生まない力が芽生える。虚しさがニーナの心を占めた。肩を落として手を離した。
 自分の壊れた歯車を直すことができるとしたら、それは目的を果たした時だけだ。時計への羨望は瞳を濁して奥へ沈んだ。
 火付けの音がして、しばらくすると甘い香りが漂ってきた。振り返ると、エリクが食卓の横に立ち、煙草を吹かしていた。耳や首筋にかかる黒髪は先が汗に濡れていた。袖から伸びる引き締まった腕には、沢山の傷があった。それが鉄屑を触る際に出来たものなのか、それともまた別の傷なのか、ニーナには知る由もない。彼には触れることはおろか、眺めることさえ許さない、厚い扉があった。その存在が肌を掠めるたび、ニーナの心には寂しさが落ちた。
 彼の家に棲みついて、一ヶ月が経っていた。
「ロブの所へ行かなくていいのか」
「え」
 声をかけられて顔を上げると、エリクはニーナに視線を向けていた。仕事中は人のものとは思えない美しさだった青い瞳も、今は平静を取り戻し微風にそよぐ海面のように穏やかだった。
「もう傷は塞がったよ」
 ニーナは大きく肩を回してエリクへ歩み寄る。エリクは不審げに目を細めた。
「じゃあ、さっきのは」
「さっきって」
 そこまで口にして、ニーナはあっと声を上げた。背中の傷を庇いながら燭台を持っていたのを悟られていたのだ。
「あのね、だからね、表面はくっついてるんだけど、たまに奥の方がぴりっとするの。それだけよ」
「今日だけじゃないだろう」
 エリクは煙草をくわえて、器に琥珀色の茶を注ぐ。湯気は次から次へと立ち現れ、陰影のある紫煙と絡まり消えていった。
 ニーナは黙り込む。エリクは呆れて息をついた。
「お前の体だ。どんな具合か自分が一番よくわかってるだろう。もういい、そんな顔をするな」
 茶の熱さに眉を寄せながら、エリクは音立てて茶を飲んだ。ニーナは彼の機嫌を窺うように上目遣いで見上げて、素肌の唇に笑みを乗せた。無精髭の残る彼の横顔に、ニーナは優しさを見出した。
「エリクって損な性格してるよね」
 ニーナの小さな呟きに、エリクは噎せた。
「何の話だ」
 頬を引き攣らせて、エリクは小柄なニーナを睨みつける。ニーナは素知らぬ顔で台所へ入っていく。すぐに戻ってきたニーナの手には、水差しがあった。澄ました顔で彼女はエリクの器に少しの水を注ぐ。競うように立ち昇っていた湯気が勢いを失い、綿毛のようにふわりと舞い上がった。
 ニーナは悪びれない様子で微笑した。エリクは黙り込んで、一気に茶を飲んだ。口の端からこぼれた一筋を袖で拭い、時計を振り返る。針は正午を差していた。
「出かける」
 そう言ってエリクは寝室に入る。ニーナはエリクの突然の行動に戸惑うが、ひとまず水差しを台所へ戻しに走った。居間へ戻ると、顔面に外套を投げつけられた。
「え、一緒に出かけるの」
 ニーナの問いに、エリクから返事はなかった。エリクは黄砂色の外套をはおり、机にあった家の鍵を引っ掴んだ。大股で玄関まで行き、扉を開ける。エリクの外套は、大きな音を立ててはためいた。風は強くなっていた。
「突風が来る前に行くぞ」
 逆光で、エリクの輪郭が濃く浮かび上がる。ニーナは影に覆われた彼の顔に、青く優しい眼差しを垣間見た。それは、一日が暮れていく時の、群青の空によく似ていた。