砂の歯車

03

 扉に鍵をかけ、エリクは大砂漠の方角を振り返った。風や砂の音の向こうに、銃声と爆音が響いていた。空は北から濁っていく。エリクは頭まで外套で覆い、歩き出した。
 行き交う顔が、皆にこやかに微笑んでいるように思えて、エリクは舌打ちした。女将から請け負った仕事に、ニーナを関わらせるのではなかったと後悔した。女将の情報は、瞬く間に町に広がる。今ごろは町外れに住むロブの元へも、事実に色のついた話が持ち込まれているだろう。エリクは失念していた自分を恨んだ。
 少し後ろを、ニーナが早足でついてくる。エリクは肩越しに彼女を見て、伏し目がちになった。
 彼女に仕事の手伝いをさせ始めたのは、二週間ほど前のことだった。ロブから、少しずつ日常へ戻れるように訓練をした方がいいと言われたらしく、その日から彼女は自ら手伝いを買って出た。ただ、全ての仕事の手伝いを許したわけではなかった。意図的に、住人からの仕事には立ち入らせないようにしていた。彼女がロブの元へ診察に行く時も、人気のない時間を選んでいた。
 エリクは胸の奥でため息をついた。なぜ今日に限って彼女を仕事場へ呼んだのか。まるで騒ぎ立てられたいがために、ニーナに手伝わせたようなものだった。
 そもそもなぜ手伝いをさせているのかも、理由が判然としなかった。ロブに面倒を見ろと言われたからか、彼女が手負いだったからか、彼女の強引さに負けたからか。どれも差し障りない理由であったが、どれもエリクに馴染むものではなかった。
『どうしても、やらなければいけないことがあるの。お願い』
 そう言った淡い麦色の瞳に、エリクは何かを悟ったのだ。ニーナの持つ根拠のない、限りもない透き通った強さ。思考するよりも先に行動を起こす無謀さ。それは自分がどこかで失ったものに似ていた。自分も彼女のように、真っ直ぐ世界を見つめていた頃があった気がした。
 何も聞かずについてくる足音が妙にいじらしい。エリクは仕事場にわざとニーナを呼んだのではと、俄かに戦慄した。
 視線を上げると、軒の下に見慣れた看板が揺れていた。金具がぶつかって鈍い音を立てる。扉には看板と同じ絵柄が描かれていた。エリクはニーナの腕を引いて、急いで扉を開けた。砂が吹き込まないよう素早く閉める。
「これは、これは。噂のお二人だ」
 間延びした声が奥からかけられた。エリクはニーナから手を離し、外套を脱いだ。昼間だというのに薄暗く、日暮れ色をした灯りが壁や天井を濡らしていた。狭い店内にはテーブルが二つと布張りの長椅子があり、右手にはカウンターがあった。どれも煮詰めた砂糖のような色をしている。壁には調理道具と酒瓶が並んでいた。
 奥には眼鏡をかけた男が微笑んで立っていた。エリクは彼を一瞥することなく、カウンターの椅子にかけた。男はカウンター越しにエリクの前に立ち、水を出した。立ち尽くしているニーナに向かって、やわらかい笑みを向ける。
「どうぞ」
 そう言って、水の入った器をもう一つ置いた。
 ニーナは外套を脱ぎ、軽くたたむ。カウンターに手をついて座ろうとするが、小柄な彼女には椅子が高すぎた。エリクは横から彼女の腕を掴み、座らせた。
「あ、ありがとう」
 小さな声でニーナは言った。エリクは威勢がない彼女を不審に思うが口にはしなかった。
「エリクにもそういうことが出来るんだねぇ」
 店の男はにやにやとしながら、硝子の器を拭いていた。エリクは軽く睨みつけて、扉近くの黒板を振り返った。
「おい、あれ」
 エリクは黒板に書かれた料理を指差す。男は澄ました顔で首を振った。
「駄目だね。真相を話さない人には出しません」
「子供か、お前は」
「残り物なら適当に出すよ」
「じゃあ、それでいい。ニーナは」
 煙草を口に咥え、エリクはニーナを横目に見て言った。ニーナは器を両手で持って、驚いたような目でエリクを見上げた。
「あ、えっと」
「ニーナちゃんっていうんだね」
 男は塩漬け肉を細かく刻んでいた。エリクは煙草に火をつけて呆れて言った。
「まさか人見知りか」
「そ、そうじゃないよ」
「じゃあ、腹が減りすぎたか」
「それでもないよ。えっと、あの、私もエリクと同じでいいです」
 口早に言うと、ニーナはまた俯いた。
「かわいい子には、何でも作ってあげるのに」
「おいジャック、水は」
 空になった器をかざす。
「忙しい」
 ジャックは眼鏡の奥の目を涼しげに細めて、顎で水差しをさした。エリクは舌打ちをして椅子から立った。カウンターを回り、陶器の水差しから水を注ぐ。店の奥に、黒く四角い箱のようなものが見えた。エリクは水を一杯飲んで、それを手に取った。ちょうど分厚い書物ほどの大きさで、重さがあった。
「お前が来たら、飯代の代わりに修理してもらおうと思ってたんだ。ここのところ全く来ないもんだから、すっかり忘れてたよ」
 ジャックは鍋で具材を炒めながら言った。店内には脂が溶けて焼ける匂いが充満した。エリクは咥えた煙草からのぼる煙に顔をしかめ、手の中の物を精察する。
「無線機か」
「そんな感じ。動かないからわからないけど」
「どこで手に入れた」
 エリクは外の光が落ちるテーブルへ寄り、深く沈む長椅子に腰を下ろした。
「親父の荷物を整理してたんだ。軍人だけあって、俺にはわからない物ばかり出てきたよ」
「無線機を支給されるとは、お前の親父はそれなりに偉い軍人だったんだな」
 エリクは腰から下げていた工具鞄を外し、中から細長い工具を取り出した。小さな止め具を緩めて、木製の外枠を開く。中には砂が張り付いていた。工具を刷毛に持ち替え、砂を払う。
 鍋からは水分の弾ける音がして、漂う香りに深みが増す。
「さぁね。狙撃されるくらいだから、そうかもしれないね」
 ジャックの声は穏やかだった。エリクは視線を上げて彼を盗み見る。大切な話で素直になれない男だった。エリクは返事を控えた。
 窓が揺さぶられる。突風がきた。エリクは俄かに弱くなった光を逃がすまいと、無線機の内部を傾けて回路を確認する。
「はい、どうぞ」
 ジャックはエリクの前に料理を置くと、すぐに下がった。エリクは匙で料理を口に運びながら、無線機の修理を続けた。残り物とジャックが言った料理は、黒板に書かれていたものだった。

 突風は次第に強まり、窓を打つ砂礫の音が耳についた。ニーナは匙を持ったまま、小さな窓を眺めた。硝子越しに見える歪んだ空には、厚く重い灰色の雲が雨を孕み、ほんのり赤く染まっていた。
 ニーナの口数が減ったのは、人見知りのせいではなく、空腹のせいでもなかった。原因は、エリクにあった。風を裂いて進む彼の背中を見上げて、ニーナは息が止まる思いをした。独り占めしたいと思ったのだった。強く、しかしやわらかく引かれた手を思い出し、ニーナはため息をこぼした。
「今日の突風は結構強いね。うるさいから、音楽でもかけようか」
「え」
 顔を上げると、カウンターの向こうで眼鏡を拭きながら、ジャックが微笑んでいた。色素の薄い金の髪が、彼の笑顔をより穏やかなものに見せた。
「蓄音機があるの?」
「ああ、あるよ。選曲は任せてくれる」
「うん」
 ジャックは店の隅にある大きな箱の前に立った。蓋を開けて円盤を乗せる。濁りながらゆっくりと、笛の囁きが流れ出した。聞いたことのない音楽だったが、久しく聴いていなかった楽器の音色にニーナの心は躍った。
「やっと笑ったね。そんなに人見知りなの」
「あ、そうじゃなくて」
 慌てて首を振り、ニーナは料理を口に運んだ。
「なんか、いつもと違うから調子狂っちゃって」
 店内に音楽が満ちる。外で吹き荒れる無骨な音は、奏でられる旋律に掻き消えた。
「ニーナちゃんは、音楽は好き?」
「好きだし、落ち着く。ずっと楽器がそばにあったから」
「そばって、家にあったの」
「うん」
 静かに頷いて、ニーナは生家を思い出した。敷地内には芝生が敷き詰められ、母の手作りの花壇には、年中花が咲き乱れた。小さな家は白壁が美しく、灰がかった青い屋根が一層映えた。光の差す記憶だけが、華やかにニーナの中を巡る。
「家に楽器があるってことは、ニーナちゃんはお嬢様だったんだね」
「そんなことないよ。父が神官で、家のすぐ横が礼拝堂だったの」
「そうか、それなら音楽は必須だ」
 ジャックは柔和な表情で頷き、曇りのない硝子食器を丹念に磨いた。
 彼らは実はよく似ているのかもしれないと、ニーナは思った。
 ジャックは特に目立つ容姿ではない。だが穏やかな笑顔と、加減を知った会話には、人を惹き付けるものがあった。感情を巧妙に隠しはするが、意思までは及ばない。それがとても自然で、ニーナには心地よかった。
 窓から外を窺う振りをして、ニーナは後ろのエリクを見遣る。すでに食事を終え、無線機の修理を続けていた。
 エリクは整った顔立ちをしているが、愛想がない。人を馬鹿にする時しか笑顔を見せず、必要な会話すら交わさない。彼の周りには人を寄せ付けないための透明の壁があるように思えた。それでも時折彼は、そよぐ風のように穏やかな目をすることがあった。そんな時のエリクの横はとてもあたたかく、たとえ銃弾が空を覆っても必ず守ってもらえるような安心感があった。
 ニーナは己の心の、雨を孕む厚い雲に気付いた。
「いつから、エリクの手伝いをしてるの」
 ジャックの問いかけにニーナは振り返る。小さな声で、外はすごそうだねとジャックが言い足した。ニーナは黙って料理を口に運んだ。ジャックに、エリクを見ていたと悟られていた。歯に当たる塩漬け肉の感触が、ニーナの恥じらいを煽った。
「一ヶ月、くらいかな」
「じゃあ、だいぶ慣れた頃だ」
「うん。最初は何を手伝ったらいいのか――」
「エリクにだよ」
 ニーナの言葉を遮って、ジャックは意地の悪い笑みを浮かべた。
「まるで子供だからね、彼。慣れないと面食らう」
「なんか、わかる気がする」
 出際のエリクを思い出し、ニーナは忍び笑いをした。あんなに逞しい体を見て、まさか彼が猫舌だとは誰も思わないだろう。
「ジャックはエリクのこと、よく知ってるの?」
「彼がここに来た頃からね。それ以前のことは噂にしか知らないな」
「どんな噂」
 ニーナの問いを受けて、ジャックはテーブル席のエリクを一瞥した。眼鏡の奥の輝きを抑えて、さり気なくニーナを手招きする。ニーナは椅子から腰を浮かせて身を乗り出した。
「女将の話だとね、軍人だったって話だよ」
 ジャックはニーナの耳元から離れて、口元を得意げに歪めた。しかしニーナにとってその噂は、何の驚きも伴わなかった。
「そうなんだ」
「あれ。反応薄いなぁ。もしかして知ってた」
「ううん。初耳。でもなんとなく納得できるかも」
 冷めかけた料理を口に運び、ニーナは涼しげに言った。エリクが元軍人なのだとしたら、腕の無数の傷も、背筋の伸びた立ち居振舞いも、静かな優しさも、全てが繋がるような気がしたのだ。
 澄ましたニーナを見て、ジャックはやわらかく笑った。
「わかってないなぁ」
 声音と笑顔が不釣合いで、ニーナは顔を上げた。ジャックはカウンターに肘をついて、前髪をかきあげた。
「あんなに恵まれた体格と若さで、どこの軍人が辞めさせてもらえると思う。大きな怪我を負ったふうでもないし、元軍人っていうのは、俺にとっては謎だらけだね」
 言われてようやくその違和感に気が付いた。ニーナは肩越しにエリクを振り返る。彼は煙草を咥えて、無線機の調整をしていた。
「まぁでも、聞けば教えてくれるかもしれないよ。君になら」
「どうして私が」
 以前から付き合いのあるジャックが聞けず、どうして自分に可能性があるのか。ニーナはぽかんと口を開けて首を傾げた。ジャックは笑みを返すだけだった。
 ニーナの背後で散った砂を踏む音がした。
「まだ食ってるのか」
 エリクの声がして、ニーナは肩を震わせた。匙に乗っていた料理が皿にこぼれる。
「あ、ごめん。つい音楽に聞き惚れちゃって」
「ニーナちゃん、神職の娘さんなんだって。知ってた?」
「はぁ」
 エリクは気のない返事をしてニーナの横に座った。無線機をジャックの前に置く。
「かなり旧型だがそれなりに使えるだろう。せいぜい無断傍受でもするんだな」
「これはどうも。さすがだな、エリク」
「所々、傷んでただけだ。手間はかかるが大したことじゃない」
 エリクは短くなった煙草を灰皿に押し付けて、水を一気に飲んだ。
「それ、私の」
「風がやんだ。雨が来ないうちに帰るぞ」
 そう言ってエリクは外套を持って椅子から立った。ニーナは彼に遅れまいと料理を口にかき込み、その場で足踏みをしながらジャックが注いだ水を一気に飲み干した。急いでエリクの後を追う。
「ニーナちゃん、忘れ物」
 ジャックに呼ばれて振り返ると、椅子に外套を忘れていた。慌てて取りに戻る。
「それがないと、帰る頃には砂まみれだよ」
「ありがとう」
 ニーナは外套を掴んで広げる。ふと、脳裏によぎったものがあった。
「あ、あのね」
 心細げなニーナの声に、皿を洗っていたジャックは手をとめて顔を上げた。目顔で何事か問う。
「さっき、お父様が撃たれたって言ってたけど」
「ああ、そのことか。うん、そうだよ」
 ジャックは笑顔を崩さずに言った。ニーナにはかえって無表情に思えた。
「犯人は捕まえたの?」
「まさか。素人がどうにかできる相手じゃないと思うよ。親父の死は戦争っていう歯車に巻き込まれた、小さな小さな砂粒だからね。その砂の息子に打つ手はない」
「じゃあ、そのままなの。悔しくないの。悲しくないの」
 一瞬風が吹き込んで、すぐに閉ざされた。扉を振り返るとエリクの姿はなかった。
「悔しいし悲しいと思った。でも感傷は何も生み出さない。むしろ身を削るような危険なものだ。だから俺は忘れて、何も期待しないことにしたんだよ」
 再びジャックは皿を洗い始めた。ニーナは笑顔に潜む悲しみを汲み取ろうとしたが、及ばなかった。
 なぜ彼は諦められたのだろう。諦めることを善しとしたのだろう。ニーナには理解できない。
「私なら、身を削ることも厭わないわ。だって、家族なんだもの」
「そうか。大切にされてたんだね」
 眼鏡の奥の双眸はどこまでも穏やかで、死の香りなど少しも感じさせない。
「ほら、置いていかれるよ。雨が降る前にお帰り」
 有無を言わせないジャックの言葉に、ニーナは頷いて店を出た。見上げた空は更に赤く、今にもこぼれ落ちそうだった。