砂の歯車

04

 風の穏やかな日は、ニーナは家の前に麻布を敷き、エリクが拾い集めた鉄を磨いた。布で軽く拭き、それでも汚れが落ちない場合は薬品を使った。中でも錆落としに使う薬品はひどい臭いがした。
「今日も精が出るね」
 俯いて作業をしていたニーナの頭に声が降った。顔を上げると、宿の女将がいた。抱えきれないほどの毛布を持っている。
「お客さん、多そうだね」
「客というかね。ほら、例の役人の巡察だよ」
「あぁ」
 ニーナは以前の女将の話を思い出した。
「もうすぐ着くんじゃないかね。予定より人が増えたとかで、いい迷惑だよ」
「でも、嬉しそうだね」
 そう指摘され女将はにやりと笑った。歯に埋め込まれた水晶も笑う。
「そりゃ、その分ちゃんと弾んでもらうから」
 二人は目を見合わせて笑った。
 通りの向こうから、宿の若い男が駆けてくる。手を振りながら女将を呼んでいた。
「まったく、せかしいねぇ。じゃあね、お嬢ちゃん。ハースさんにもよろしく」
「はぁい。女将さんも頑張ってね」
 ニーナの労いの言葉に、女将は片目を瞑って応えた。急ぐ様子はなく、迎えに来た男に向かって歩き、持っていた毛布をぶつけるようにして手渡していた。
「お役人、か」
 呟いて、ニーナは赤みの強い落ち葉色の髪に触れた。ニーナの胸は騒いだ。もし出自が知られれば、首都へ強制的に送還される恐れがあった。少なくとも、ここにはいられなくなるかもしれない。
 不安を振り払うように、ニーナは懸命に鉄を磨いた。銀製品のような加工がされており、磨くと曇りが消え、そこにはぼんやりと自分の姿が映りこんだ。町の人にもあれだけ隠し通せたのだ。役人の目から逃れることも可能に思えた。だがエリクが何と言うかニーナには予想がつかなかった。傷も治ったのだから出て行けと言われれば反論する言葉がない。彼にニーナを守る義理はもうないのだ。
 ニーナは持っていた鉄を布の上に置いた。その拍子に、歪んだ縁で指を切った。白い肌から真っ赤な血が流れる。鼓動と同じ早さで傷口が疼いた。血を舌で掬い取る。鉄の味が歯に染みる。
 いつまでもここにいたいと思っている自分に、ニーナは気がついた。
 馬蹄の響きが耳に届いた。ニーナは役人が来たのだと直観した。急いで道具を片付け始めた。馬は走っているふうではなかった。だが音が近付くのは早かった。ニーナは傷ついた指をかばいもせず、まとめた道具を両手に抱えた。横を、先頭の馬が過ぎていく。獣の臭いに気を取られた。研磨剤が転がり落ちた。
「あ」
 丸い缶はニーナの元から離れ、馬列のそばで止まった。道具を無くしては、エリクに怒られる。怒られたくない思いが強かった。ニーナは他の道具をその場に置いて、研磨剤の缶に手を伸ばした。
「おい、子供! 蹴飛ばされたいか」
 ニーナは固い棒で肩を突き飛ばされ、地面に尻餅をついて倒れた。反射的に睨み返した先には、徒の護衛が仁王立ちになっていた。馬列は騒ぎに進みを止めていた。
「何をしている、早く進まんか」
 一際毛艶のいい白馬に乗った、小太りの男が金切り声で喚いた。ニーナは服装や態度からそれが役人であるとわかった。護衛は体を硬直させた。
「し、しかし」
 男は消え入りそうな声で言う。ニーナは隙を見て腰を上げた。気付いた男が再び棒を構える。振り返ったニーナの視界は影に覆われた。避けるすべを知らず、ニーナは固く目を瞑った。しかし彼女が打たれることはなかった。鶏が絞められた時のような声が短く響いて、男の手から棒が落ちた。恐る恐る顔を上げると、男は地面にうずくまり、腕を押さえていた。すぐそばに、黒鹿毛の馬が尾を揺らして居た。ニーナは馬上を見上げた。
「先に、お進み下さい。ここは私が」
「うむ。任せるぞ、ルイ」
 白馬の上で役人の男は満足げに頷き、馬列は何事もなかったように進み出した。
 ルイと呼ばれた男は軽い身のこなしで馬から降りた。研磨剤の缶を拾い上げ、砂を払いながらニーナの前に立つ。男は護衛者の服ではなく、軍服を身にまとっていた。襟足の長い髪は陽の光に透けるような金髪で、制帽の影から覗く瞳は苔のように瑞々しい深緑だった。
「鉄屑磨きか。精が出るね」
 缶に書かれた字を読み、男はにこやかに微笑んだ。ニーナは差し出された缶を受け取り、男に見とれた。男はニーナの背後を見て、口元を曲げた。
「君は、ここの――」
 男が言いかけると同時に、家の扉が開いた。ニーナが振り返ると、煙草を口に咥えたエリクが不審げに眉を寄せた。
「何かあったのか」
「あ、あのね、この軍人さんが……」
 ニーナはエリクの袖を引き軍人を振り返るが、男は二人に背を向けて馬の手綱を掴んでいた。
「待ってください。お礼がまだ」
 駆け寄ると、彼はニーナを遠ざけるように制帽を目深に被った。
「構わないで。次は気をつけるんですよ」
 男は馬に跨り、砂を巻き上げて立ち去った。ニーナは手元に残った研磨剤の缶を見て、男の深い瞳を思い返していた。美しいが、背筋が凍るような冷たさを併せ持っていた。軍人の目、人を殺したことのある目に見えた。
「あまり目立ったことはするな。役人に目を付けられても面倒だ」
 そう言ってエリクは部屋に戻っていく。ニーナは彼にも同じ冷たさを見ていた。

 * * *

 静かな夜だった。砂漠に降る月の光は、白くやわらかい。エリクは作業部屋から見える夜空に耽った。
 机の上には仕事が山積みになっていたが、片付ける気にはならなかった。煙草を口元に近付けるたび、指先に染み付いた鉄のにおいが鼻についた。目を閉じると、記憶に染む血の匂いがよみがえった。エリクは昼間に見た軍人を思い返す。
「ルイ……」
 砂漠の風が窓を揺らした。エリクの心は強く張り詰めた。底から湧き出す動揺に、必死で抗った。空を見上げると、流されてきた薄雲に月が見え隠れした。明滅する輝きに、心は逸った。今だけは、暗闇にいたくない。
 部屋には燭台が見当たらなかった。窓際から動くのは惜しかったが、エリクは迫る闇に耐えられず部屋を出た。
「あ……」
 扉を開けると、すぐそこにニーナが立っていた。ぶつかりかけて、エリクは慌てて立ち止まった。自分が影になって、ニーナの表情はよく見えなかった。だが彼女にいつもの元気がないことはすぐにわかった。賑やかな彼女を面倒に思うことがあったが、それでも家から追い出そうとは思わなかった。必死に仕事を手伝う姿や、笑顔を見ていると、これも悪くはないと思った。
「どうした。こんな遅くに」
 ニーナの頭を軽く撫で、エリクは居間に促そうとする。肩を押すと、強く抵抗された。ニーナは顔を上げ、エリクを見つめてきた。揺らめく瞳には、少女にはまだ早い憂いがあった。隙間をぬって届く月明かりが、さらに彼女の肌を白くした。エリクは少女の中に息づく女に出会った。
「ニーナ」
「あのね、エリク。聞いてほしい話があるの」
 口を開いた瞬間、ニーナに滲んでいた女の香りは立ち消えた。エリクは持っていた煙草の灰に気付いて、部屋に戻る。
「話って、銃が欲しい理由か」
 散らかった机の上に灰皿を探す。手にする鉄はどれも冷えて氷のようだった。
「覚えてたの」
「一応」
 道具箱の裏にようやく灰皿を見つけたが、その時には灰は崩れて床に散っていた。
「ねぇ。エリクは人を殺したいと思ったことある?」
 鈴のような愛らしい声にその問いはそぐわなかった。エリクは足元に落ちた灰を靴で踏む。確かに踏みつけても、灰の存在を足に感じることはない。
 自分だって、世界にとっては灰のようなものかもしれない。
「あるよ」
 煙草の味が不快に思えて、エリクは煙草を消した。背後にニーナの気配を感じる。
「じゃあ、人を殺したことはある?」
 彼女の細い指が腕に触れた。
「この手で」
「どうしてそんなことを」
 肩越しに彼女を見下ろすと、ニーナの真っ直ぐな眼差しが待ち受けていた。薄い茶色の瞳には、彼女の強さと弱さが綯い交ぜになっていた。
「もし、人を殺したことがあるのなら、その時の気持ちを聞いてみたいの」
「それはなぜかを聞いてるんだ」
「そ、それは」
 ニーナは言い淀み、手を離した。最後に掠った彼女の爪の感触が、エリクの感覚を占めた。ニーナは視線を逸らして手近にあった工具を持った。冷たさに縋るように握り締める。
「私には、殺さなければならない男がいるから」
「怖いな。恋人か何かか」
 ニーナは首を横に振った。
「そんな素敵な話ならいいけど、違う」
「だったら」
「両親の仇よ」
 工具を握る指先が白くなる。エリクは静かに彼女の横顔を見守った。
「私の故郷は西の第八区」
「北方の植民地だな」
 ニーナは頷く。
「もう、ないけれど」
 そう言って、ニーナは小さく微笑んだ。部屋に射し込む月明かりが、不躾に彼女を照らす。それはあまりにも厳かで宗教的であり、残虐な歴史とは裏腹に清廉で美しいものだった。透徹した悲しみが満ちる。エリクは窓際へ寄り、腰かけた。
「八区は随分ひどかったようだな」
「女も子供も容赦なく殺された。捕らえられた子は館に売られてドールになった。町は跡形もなく破壊された」
 体温の移った工具を手放し、ニーナはエリクのそばに立った。がたがたと震える窓に手を添えて、夜空を見上げる。
「空気が冴えて、ここよりも星がきれいに見えたわ。風は冷たかったけど、頑丈な石造りの家が守ってくれた」
「俺も一度、行ったことがある……」
 エリクは煙草に火をつけて言った。
「星はあまり見えなかったが」
「そうなんだ。なんだか、嬉しい」
 ニーナはエリクを見下ろし、目を細めた。
「私の父は、元は本国で神にお仕えしていたんだけど、八区が植民地になった時に移住したんですって。そこで母と出会って、私が生まれた」
 首飾りを服の中から引き出す。先には、輝きを失った指輪が二つ繋がれていた。
「独立運動が激化して、父の教会には活動員が出入りするようになったわ。みんな見た目は怖かったけど、悪い人は誰一人としていなかった。私は大好きだったの、みんなのこと。お兄さんが沢山できたみたいで、嬉しかった」
 ニーナは指輪を両手で優しく握った。それはまるで祈りのようだった。眉が苦悶に歪む。
「珍しく蒸せた夏の夜だった。風がなく、雲が満ちた暗い夜に、父と母は殺された」
 少女の睫毛が雛鳥のように震える。涙が一筋流れ落ちた。
 エリクは口元に寄せた煙草を忘れて、絶句した。冷たい汗が背中を流れる。
「ニーナ……」
「戦争で親を喪ったのは私だけじゃないってわかってる。それでも――」
「ニーナ、お前の姓はもしや、グレヴィスか」
「え」
 ニーナの手から指輪がすり抜けた。
「どうして知ってるの」
 問いかけにエリクは目を逸らした。
「いや……」
「ねぇ何か知ってるの。噂で聞いた。あなたが軍にいたかもしれないって。教えて、何でもいいの。手がかりが欲しいの」
 ニーナは床に膝立ちになり、エリクの手を取った。彼女の指先はとても冷たかったが、掌の芯は木炭のように熱を孕んでいた。
「私が追ってる男の名前は、ハル。傭兵だから本名ではないと思うけど」
「そう……だな。傭兵の多くは変名を使う。故郷や、本名の文字を入れ替えたりして作ることが多い」
 煙草が短くなり、炎が迫っていた。だが体の奥から冷たさが這い上がってくる。炎の熱すら呑みこまんとする、闇の冷たさだった。
「じゃあ、ハルっていう音は、東の」
「そう考えるのが妥当だろうな」
 悲しみに濡れていたニーナの瞳に光が戻った。それは人を殺すには、あまりにも無邪気で輝かしい笑みだった。
 エリクは触れていたい気持ちを捨てて、ニーナの手を振り払った。立ち上がって、煙草を押し消す。内に潜む冷たさを、無慈悲なほど強引に引き出そうとする熱が憎らしかった。風はいつしか止み、部屋には時計の秒針が響いていた。ニーナは突然の動きに呆然として、彼を見上げた。
「どう、したの」
「本気でその傭兵を殺す気か」
「当然よ」
 勢いよく立ち上がり、ニーナは腰紐に結んだ鞄の切れ端を掴んだ。エリクは口の中に残る煙草の苦味を喉に押し込み、深いため息をついた。
「お前は人を殺すということが、どういうことかわかっているのか」
「説教なんて聞きたくない」
 幼い少女の横顔には固い決意があった。エリクは世界の罪深さに憤りを感じた。運命という歯車は、個人の意思など無視をして、ただひたすらに運動を連ねていく。そこに巻き込まれた者の不遇も悲しみも孤独も、何もかも素知らぬ顔で。
 エリクは繰り返される世界にあらためて絶望し、そこに加担した自分も呪った。
「さっきの問いに答えよう」
 心の目を閉じ、いくつも浮き上がってくる記憶を掴む。どれを掴んでも、差はない。どの記憶からも同じような腐臭が立っていた。
「人を殺したことはある。その時のこともよく覚えている」
「どんな感じだった。怖かった?」
 ニーナは目を輝かせてエリクを見つめた。エリクは静かに目を伏せた。
「あっけないよ、人なんて。時計と同じさ。たった一つの歯車が狂っただけで全て終わる。そもそも動いていることが不思議なほど、脆い存在だ。簡単に世界との繋がりも、自分であることも失われていく。それは殺す側にとっても恐怖だ。なぜなら、自分もまた同じ人という存在だからな」
 生温い返り血を浴びるたび、エリクは不思議に思った。自分にも同じものが流れているのかと。自分だけは雪解け水のように冷たい血が巡っているのではないかと。
「ただ、いつかその恐怖は薄れていく。人を殺したことが、まるで夢だったかのように思えてくる。感覚なんて曖昧だ。望むと望まないとに関わらず、何もかも茫洋とした意識の向こうに行ってしまう。それを恐怖というなら恐怖かもしれない。だがこれだけは言える。たとえ行動の発端が仇討ちという正義であっても、決して勧められるようなことじゃない。人殺しは人殺しだ。それ以上でも以下でもない」
「エリク……」
「考え直すんだな」
 エリクは外套を掴んで部屋を出た。
「待って、どこに行くの」
 後を追ってニーナも部屋から飛び出してくる。エリクは顔を合わせることなく、家の扉を開けた。
「砂溜まりだ」
 言い残して、扉を外から閉める。エリクはしばらくそこから動けずに、扉に背を預けて佇んだ。
 その時エリクは自分の胸の内にある、扉に隔てられた愛しさに気付いた。