砂の歯車

05

 世界は凝縮されていた。じっとしているだけで噎せるような夜だった。男は口元を覆うマスクに指を差し入れておろす。すぐ横にいた金髪の少年が真似てマスクを外した。
「暑いですね。北寄りなのに」
 空に月はなく、厚い雲が次から次へと吹き寄せられていた。上空に風はあるようだったが、下は入り組んだ路地に邪魔をされて、熱が滞っていた。厚手の生地の内側は、体温で蒸れていた。
「これじゃ、南方と大差ないですね。参ったな」
「いや、おかげで月明かりがない」
「そか。だったらマスク外しても大丈夫ですね」
 少年の明るい声を場違いに思いながら、男は再びマスクを付けた。
「ハル隊長」
 背後の陰から、偵察に赴いていた仲間が戻った。
「どうだった」
「はい。誘き出すことには成功したようです。もし戻っても悪路を考慮すると半刻ほどかと思います」
「わかった。お前はここに留まれ。半刻経って戻らない時は、南へ向かえ。本隊に合流できる」
「承知」
 傭兵のみで構成される遊撃隊の中で、彼はもっとも足が速かった。作戦が失敗しても、敵に先手を打たれるわけにはいかなかった。
「隊長、僕は」
 金髪の少年が菓子をねだる子供のようにハルの袖を引いた。ハルは少年の頭を撫でて、通りの向こうの教会を見据えた。
「ルイは俺と一緒に来い」
「はい!」
 ハルは両手に銃を持ち、仲間の合図を待つ。垂れ込めた雲が時折千切れ、芝生の緑が白く照らされた。教会に灯っていた全ての明かりが、ふと消えた。

 門扉を飛び越え、前庭を走る。すぐ後ろにルイが付いてきているはずだが、足音はない。風を切る音だけが聞こえていた。先に侵入して合図を出した仲間が、柵を乗り越えて敷地から出ていくのが見えた。教会の壁に背中を張り付け、ハルは中を窺った。特に騒ぎになっている様子はない。だが、人のいる気配はあった。相手はただの神官であっても、用心するに越したことはなかった。壁伝いに移動し、わずかに開いた扉から体を滑り込ませる。木の床は靴が響きやすいので、腹這いになって敷き詰められた椅子の陰を進む。奥の祭壇に近付くにつれて、油の臭いが強くなった。天井が、燭台の明かりで赤く揺らいでいる。祭壇の上には、神を模した像が濃い陰影をもって佇んでいた。神の眼差しは何ものも見ていないようであり、同時に全てを深く見透かしているようでもあった。ハルは手袋越しに感じる銃の冷たさに縋る。神に夢見る時はとうに過ぎ去っていた。だが犯してきた罪は日に日に重く感じていた。逃げ出したい気持ちでのた打ち回る夜もあった。いつ死んでも後悔はなかった。むしろ早く訪れることを望んでいた。だがその生命の放棄が、彼を死から遠ざけた。死への恐れがないことは、戦場において彼を強くした。運命の皮肉を、ハルは恨まずにはいられなかった。
 体を起こし、さらに祭壇に近付く。辺りは煌々と照らされ、隠れられる場所は少なかった。祭壇には男女の影があった。作戦対象の神官の夫婦だった。耳を澄ましてルイの居場所を探る。祭壇を挟んだ向こうにいるようだった。高い場所にある窓は、陰影を持たない雲に埋め尽くされていた。
「彼らが帰ってくるまでに、ここを出た方がいいわ。ねぇ、そうしましょう、あなた」
「いや、そういうわけにもいかない。彼らを見捨てれば、私は神に仕える者として生きていくことは出来なくなる。彼らを救わなくてはいけない」
「でも、家族はどうなるの。私や……ひっ」
 女が短い悲鳴をあげ、その場に頽れた。明かりで揺らめく神の姿に、赤い飛沫が散っていた。
 ハルは飛び出し、神官を背後から拘束した。
「う……マリー、マリー」
 足元は女の血で濡れていた。祭壇の裏からルイが姿を現した。彼は女の遺体に近寄り、投げたナイフを抜き取った。
 神官は苦しげに呻いたが、抵抗することはなかった。ハルは銃口を神官の喉元に押し付けた。
「グレヴィス神父だな」
「そうだ」
「なぜ本国出身のあなたが裏切るような真似を」
「愚問ですね、兵隊さん。私は神にお仕えする者。助けを求めてくる者を分け隔てすることはありません。もしもあなたが救いを求めるなら、私はその銃弾に倒れようともあなたを助けようとするでしょう」
「あんた、頭おかしいんじゃない」
 ルイは神官の手から燭台を奪い、目の高さに掲げた。駆けっこに勝った子供のように無邪気に笑う。神官はルイのあどけない仕草に顔を歪めた。
「悲しい世界です。あなたのように幼い兵士もいるのですね。本国にいた頃は全く知りませんでした。罪深いことです」
「僕にとっては町角の靴磨きと大差ないよ。同じ労働なら報酬の高い方がいい。それに兵士は出世もできるしね」
「殺めることを労働だなんて……」
 神官は声を詰まらせる。ルイは哀れみに満ちた神官の視線に耐えられなかった。燭台を置き、ナイフの柄で何度も頭を殴りつけた。
「隊長! 早く終わらせましょう」
「待て。まだ事項が残っている。グレヴィス神父、もう一点聞きたいことがある」
「なんですか」
 彼はぐったりとして、半ばハルに凭れかかるようになっていた。額は割れ、ハルの手にまで神官の血が流れていた。服の隙間から染み込む彼の血は、思いのほか温かかった。
「奴らの武器や弾薬をどこに隠した」
 腕にかかる神父の重さが増していく。もう、意識が朦朧としているのだ。ハルは拘束を解き、床に横たえた。神父の口元が何かを伝えようと震えている。ハルは腰から提げた水筒の栓を抜き、神父の顔に水をかけた。
「どこだ」
「御許、神の御許に……」
「何言ってんだよ、おっさん。真面目に答えろよ」
「ああ、神よ。私では彼らを救えない」
 グレヴィス神父は首を傾け、祭壇に佇む神を仰いでいた。
「神の、御許……」
 ハルは神父の視線を追って、神を見上げる。予感がして、マスクを外した。安物の油の臭いに紛れて、かすかに火薬の臭いがした。
「ルイ、祭壇の下だ!」
「え」
 振り返った拍子に、ルイの踵が足元の燭台を押し倒した。囲いが外れ、油が流れ、炎の舌先が床を這った。祭壇へ向けて牙を剥く。
「退避!」
 ハルは銃を腰に差し、その場から飛びのいた。背後からは爆音と爆風が炎を巻いて迫った。段差の陰に身を潜めるが、爆発がおさまる気配はなかった。ハルは体を低くして走り出した。教会の扉まで来て祭壇を振り返る。建物の内部が煌々と照らし出されていた。黒ずんだ炎は震えながら壁や垂れ幕を這う。天井には逃げ場のない黒煙が、厚い雲のように寄り集まっていた。目を眇めてルイの姿を探すが、見当たらない。
「くそっ」
 椅子が爆ぜ、装飾硝子が弾けるように割れていく。炎を受けた硝子の輝きは、神の涙のようだった。ハルはあまりの美しさに思わず見とれた。
 裁かれる時を待っていた。最期の瞬間だけは、戦争の臭いがしない場所であることを密かに願っていた。だが、それが今なら構わない気がした。血にまみれ、炎に晒され、崩れる間際の教会だとしても、ここには確かに聖性があった。穢されるそばから清められていく。ハルは燃え盛る炎の奥に、神の慈悲の眼差しを垣間見た。
 袖を引かれ、我に返る。振り返ると、小さな女の子が立っていた。いつの間にか扉が開いていることに気付き、ハルは少女を抱えて外に転がり出た。鼻先に冷たい風が触れる。芝生を滑り、教会を振り仰ぐ。窓と扉から、炎が噴き出した。
 屋根の突端に据えられたシンボルが、澄んだ夜空を衝く。厚い雲に埋もれていた天は、いつの間にか晴れ渡っていた。月の明かりに世界が鮮やかに映し出される。
「父様、母様」
 腕の中に抱えた少女が、教会に手を伸ばした。
「放して。おじちゃん、放して」
 少女は体を押さえつけるハルの腕に噛み付いた。尖った小さな歯が、鍛えられた腕に食い込む。ハルは逡巡したのち、少女の首の付け根を強く叩いた。少女は歯を立てたまま気を失った。敷地から出て、草の上に少女を横たえる。急に冷えた空を見上げ、着ていた上着をかけてやる。ほんのり染まった頬には涙の跡があった。
 繰返す歴史は人の性か。それとも世界の歯車か。
 ハルは月光から闇へと溶け込み、二度と軍へ帰ることはなかった。

 * * *

 砂が落ちる音に目を覚ますと、砂溜まりに腰まで埋もれていた。まだ暗いうちは起きていたはずが、知らぬ間に眠っていた。エリクは砂から体を引き抜き、頭上を覆う木の根に手を伸ばした。光は彼の手を黒く塗り潰し、根と同化させた。
 穴から出て、エリクは町に戻った。いつもの道を行きかけて、細い路地へ曲がった。建物の隙間から家を覗く。道に面した窓に人影はない。扉が開いている様子もなかった。鍵は一つしかない。それは今エリクが持っていた。もしもニーナが家から出れば、扉を閉めることは不可能だ。エリクは最後の煙草を咥えて町を進んだ。
 宿の裏口に差し掛かり、背後に気配を感じた。エリクは立ち止まった。
「やっぱり来ましたね」
 背後の男が言った。漂わせている気配は手練だが、声は若い。エリクはゆっくりと煙を吐いた。
「生きていたんだな。なぜ役人付きに」
「傭兵は辞めたんですよ。正規軍は危険も少ないし、能力に応じた待遇を受けられますから」
「意外だな。拘束されることをあんなに嫌がっていたくせに」
 エリクは背後の男を振り返った。目元は目深に被った制帽に隠れていたが、少女のように微笑む薄い唇が、翳る路地でもよく見えた。
「そうですか。無様に逃げ出した男が、中間地とは言え、まだ国内にいたとは。こちらの方が意外でしょう。よくまあ、今まで隠れてこられましたね。今までここへ来た者が無能だったと言わざるを得ない」
 ルイは顔を上げて、深緑の眼差しでエリクを見つめた。
「あ、そうか。潜むのは得意でしたね、ハル隊長」
「ルイ……」
 エリクは奥歯を噛み締めた。そうしないと、すぐにもルイに殴りかかりそうだった。煙草を軽く噛み、歯茎に沁みる苦味に眉を寄せた。
「そう嫌な顔をしないでくださいよ。これでも僕は隊長に感謝しているんですから」
 制帽を取り、ルイは頭を軽く振った。絹糸のような金髪がやわらかく揺れる。耳から首にかけて、ひどい火傷の痕があった。
「気にならないですか。隊長格ならいざ知らず、一傭兵だった僕がどうやって軍へ入れたのか」
 顔立ちは大人びて、背も随分と伸びていた。濃紺の軍服はルイに貴族のような気品を漂わせていた。だが、世界を舐めた無邪気な態度は、五年前のままだった。エリクは過去に惑わされないよう、煙草を踏み消した。
「成果を上げれば、ある程度の話は来るだろう」
 かつてエリクも正規軍へ誘われたことがあった。容易に想像はついた。
「そうですね。奴ら単純ですから、うまく話せばすぐに信用しましたよ」
 微笑を浮かべてルイは言った。整った笑みの奥に、エリクは含みを嗅ぎ取る。
「どういう意味だ」
「鈍いなぁ。隊長との最後の作戦ですよ。あれね、全て僕の手柄になりましたから。武器を回収できなかったのは痛手でしたが、奴ら本当に丸腰になっていたんですよ。おかげで確保に向かっていた別働隊は、無傷で済みました。これも、神のご加護ってやつなんでしょうかね」
 ルイは壁に凭れ、取り出した煙草に火をつけた。
「書類上、あなたは僕の証言により敵前逃亡したことになっています」
 ゆらりと立ちのぼる煙の向こうから、深緑の瞳がエリクを射る。
「店にいる女の子。あれ、神官の娘でしょう」
「気付いて……」
「一目見てわかりましたよ。あんなに美しい紅焔の髪を、忘れるはずがない。すっかり母親似の美人になりましたね」
 ゆっくりと煙を吐き出す。淡く色付いた煙は、空に重なり雲と同化する。
「どんな経緯か知りませんが、彼女は知らないんでしょう。自分の両親を殺した男と一緒に住んでいるなんて」
 ルイは喉の奥で短く笑った。
「ひどい人だな、隊長は」
「俺は……」
「殺してないなんて、そんな戯言よしてくださいね。息の根を止めたのがどっちかなんて、そんなに重要じゃないでしょう。肝心なのは、あの夜あの場にいたかどうかじゃないですか」
 エリクには返す言葉がなかった。ルイの言うとおりだった。
「だからこそ、僕のところへ来たんでしょう。口止めをするために」
「ああ、そうだ」
 足元に影が落ちた。見上げると太陽が端を覗かせていた。光に灼かれて、砂埃のにおいが強くなる。多湿な東国で育ったエリクだが、涙まで蒸発するような乾いたこの町が気に入っていた。埃っぽい風も、気まぐれに降る雨も、明け透けな太陽も、どれも自分の感性にはないものだった。
 切り出せばこの町にいられなくなる。だが心地いい場所を失ってでも守りたいものがあった。
「彼女を信頼できる人物の許へ養女にしたい。だが俺には伝がない。一時的に施設に入れてやることもできない。今の君になら、それが可能だろう」
 エリクは頭を下げた。両の拳を強く握り締める。
「頼む。彼女を救いたいんだ」
 首の後ろを、太陽が引っ掻いた。汗が顎を伝って地面に落ちる。ルイの舌打ちが聞こえた。
「何ですか、これは。僕の知る隊長は、駒に頭を下げちゃいけないんですよ!」
 ルイは激しい口調で言い捨てると、エリクの顔を蹴り上げた。エリクは衝撃にふらついたが、足を一歩後ろに下げて踏みとどまった。口の中が切れた。懐かしい血の味に、背中がざわついた。顔を上げて、ルイを見据える。
「お前には悪いことをした。傭兵部隊に誘ったのは俺だ。責任は感じている」
 初めて会った頃のルイを思い返し、エリクは居た堪れなくなった。世界への深い絶望を抱えていたが、明るく素直な少年だった。こうしたのは、自分だ。
「昔の僕なら嬉しくて、でも隊長に迷惑をかけたくなくて慌てたでしょう」
 激昂を恥じ、ルイは平静を装っていたが、抑え切れない情動が顔を歪ませた。紅潮した火傷の痕が、叫びを上げるように引き攣った。
「いまさら、懺悔なんて……」
 ルイはエリクの胸倉を掴み上げ、持っていた煙草の先を首筋に押し付けた。皮膚が縮むような奇妙な感触があった。脂の焼ける、焦げつくような臭いが鼻を刺す。
「非情で強く、揺らがない隊長が好きだった」
 エリクは火傷の痛みを呑んで顔を上げた。すぐ目の前で見る、まだ若い唇は震えていた。
「憧れていた。隊長のような男になりたかった」
「ルイ」
「それをあなたは、こんなにも簡単に踏みにじるんですね!」
 ルイは掴んでいた手を離し、エリクを突き飛ばした。抵抗する気のないエリクの体は、あっけなく地面に転がった。口の中に溜まっていた血が糸を引いて垂れる。起き上がろうとするエリクの腹を、ルイの足が押さえつけた。
「ぐっ」
 息が止まりそうになり、思わず声が洩れた。反射的にルイの足を掴んだ。ルイはにやりと笑った。
「所詮、隊長もただの人間だということですね」
 エリクの手を振り払い、ルイは尖った靴の先で横腹を何度も蹴った。エリクは砕けるほど強く歯を噛み締め、必死に堪えた。痛みは意識を奪うほど激しく、視界は輪郭が滲んで曇った。
「なぜです、なぜ反撃しないんですか。僕なんか、隊長に勝てるはずないんですよ」
 蹴るのをやめ、息を切らしてルイが言った。エリクの頬に雫が一つ落ちた。霞む視界で見上げても、それが何ものであるかはわからなかった。強く力を込めたせいで顎は痺れていた。名を呼ぼうとしても、うまく言葉にならない。もどかしさで体が千切れそうになる。
「そうやっていつも、穢れを知らずに生きていくんだ。昔からそうですよね。犯した罪など寄せ付けないで、奪った命を全部背負ってひたむきに生きるなんて……。僕らに赦されるはずない」
 ルイの声は震えていた。エリクは雫の正体を知った。大人びて見えても、彼はまだ十代の少年に過ぎなかった。痛む腹に触れると、掌にルイの寂しさが伝わった。
「ずるい、ずるいよ。隊長」
「す、まない」
「そんな言葉!」
 エリクの髪を掴んで、乱暴に壁へ押し付けた。ざらついた煉瓦が頬にこすれる。薄く目を開けると、息がかかるほど近くにルイの深緑の瞳があった。濡れて、滲んでいる。
「あの爆発で死ねばよかったのに」
 囁きに、決して殺意はなかった。だがエリクはその時、ルイに殺された気がした。自覚させられたのだ。エリクはすでに死んでいた。戦士として。
「彼女を救いたいのなら、足掻いたらどうです。背負うんでしょう、罪を。戦場を捨てて生きるなら、道は自ずと決まっているはずですよ」
 ルイはエリクを解放し立ち上がった。
「時々ね、思い出すんですよ。あの神官の、悲しい世界って言葉を。僕は自分の境遇を悲しいと思ったことはありません。でも……」
 地面に落ちていた制帽を拾って、埃を払う。散った埃が太陽に透けて輝いた。
「世界は確かに、少し悲しいかもしれない」
 足音が遠ざかっていく。エリクは硬質なその音を、壁に凭れて聞いていた。耳の奥に一つ一つ重ねられていく音は、寄り集まって沢山の足音になる。目を閉じると、赤と黒に塗り分けられた戦場が脳裏を駆けた。風を切る音が快い。絶えぬ危地が極限の集中を導き、疾走感の中で情交に似た昂りが体を巡る。だが、痛みがエリクを引き止める。帰ってはいけない。生死の境目を失うような、死んだ世界には。
 見上げた空は、建物に区切られて狭い。青は眩しい光に蒸発していく。燦然たる白い空は、どんな空より鮮やかだった。