砂の歯車

06

 一人きりで過ごす部屋は、夜が明けても暗く感じられた。ニーナはやりかけの仕事を横目に見てため息をついた。
 茶を沸かし、冷ましておいた水と混ぜる。器に注いでも、湯気は上がらない。ニーナは一口飲んで、力なく椅子に座った。本当は熱い茶が好きだった。だが無意識に、エリク好みに合わせている自分がいた。机の上にだらしなく崩れて、頬をこすりつける。なめした木の表面はさらさらとしていて、質感の円さが心地いい。
 夜更けに出て行ったきり、エリクは戻らなかった。窓から見える町の通りには、人の往来があった。一日がすでに始まっている。家を空けては無用心なので、ここからは動けない。ただ待つことしかできないのは、この上なくもどかしい。
 ニーナは考えていた。なぜ彼があそこまで動揺したのか。いつも冷静な彼が見せた激情の欠片は、ニーナには理解しがたいものだった。復讐という行為を善く思わないからか、それとも相手が傭兵では分が悪いからか。
 じわりと温まった器を両手でそっと包み込む。視線の先には、エリクの仕事場があった。扉は開かれている。作業机は昨日のままに散らかっていた。席を立ち、器を持って部屋に入る。廃材から作られた棚は鈍い銀色を放ち、静かに佇んでいた。色合いは違えども、その静寂にエリクの青い瞳が重なった。
『人を殺したことはある。その時のこともよく覚えている』
 冷たい瞳をしていた。何の躊躇いもなく命を奪う、その姿が想像できた。予感はあったが、彼に認められると悲しかった。心のどこかで否定してほしいと願っていた。そしてこの復讐を必死で止めてくれることも。
 なんと浅ましい考えだ。
 工具箱の工具を撫でる。そこにエリクの温もりを探す。両親を喪い、孤独には慣れていたつもりだった。怖いものなど何もなかった。だが今は、工具が冷たいだけで涙が溢れた。部屋には彼の匂いがするのに、灰皿には吸殻が山になっているのに、器にはぬるい茶があるのに、なぜその中心にいるべき彼がいないのだろう。一緒に生活していたのは、ほんの二ヶ月のことだ。季節が変わる暇もないほどだ。だというのに、彼の存在はニーナの中で何より大きなものになっていた。
 もし彼とずっと一緒に過ごせるなら。生きていけるのなら。ニーナは復讐のない未来も描くことが出来た。
 強い風だ。揺れる窓の音が、ニーナを責め立てるようでもあった。
 扉を叩く音がして、ニーナは顔を上げた。咄嗟にエリクが帰ってきたのだと思い、部屋を飛び出した。扉に手をかけて、鍵がかかっていたことを思い出す。エリクなら、自分で鍵を開けて入ってくる。だとしたら、客か、知人か。ニーナは涙を拭って、笑顔を用意した。
「いらっしゃいませ」
 扉を開くと、そこには役人と共に来た軍人が立っていた。制帽の陰に、穏やかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、お嬢さん」
「あ、昨日はありがとうございました」
「いいんだよ。気にしないで」
 軽く手を振って、彼は部屋の中に入った。素早く周囲に目を配る。ニーナは悟った。
「エリクでしたら、今ちょっと……」
「みたいだね。逃げ出したのかな。でもいいよ。話があるのは、君の方だから」
「え」
 ニーナは出自が知れたのかと思い、身構えた。軍人は制帽を脱ぎ去り、頭を軽く振った。耳から首にかけて、ひどい火傷の痕がある。笑うと、輪郭が歪んだ。
「ねぇ、もしも君の大好きな人がハルだったら、どうする」
 乾いて枯れたはずの苔色の瞳が、掠れた記憶の中で瑞々しくよみがえった。

 * * *

 大砂漠は風に吹かれ、刻々と姿を変えていく。数歩前の自分の足跡すら掻き消されていく。植物も虫も獣も人も、渇き、飢え、思考を失っていく。全て、風と砂に侵されていく。そこには何ものも留まっていられない変化という繰り返しがあった。何も受け入れず、何も失わず、何も生み出さない。ただ生命が綿々と繋がっていく。長く続く戦争が砂漠を離れられないのも、わかる気がした。剥き出しの本能だけが、この世界の強者だった。
 エリクは立ち止まり、来た道を振り返った。砂で霞む向こうに、小高い岩場がある。まだかすかに町の様子も感じられた。だがそれも、あと少しで叶わなくなる。
 行く宛てなどなかった。町が見えなくなるまで歩こうと思っていた。それが大砂漠の真ん中でも、戦線でも構わなかった。果てることに未練はなかった。
 砂溜まりでニーナを拾ってからの生活を思い返す。短い時間だった。戦いに翻弄された人生の、最後の奇跡だった。春のように朗らかで、鮮やかで、清新な日々だった。罪に彩られた魂が、神の慈悲に触れたのだ。炎の中で見た、あの眼差しに!
 悲しくも、寂しくもなかった。不思議と、ひどく穏やかな心地だった。満ちるということを、生まれて初めて知った。それだけで報われた。
 外套越しに聞こえる大砂漠の風音は、間際の虫の羽音に似ていた。耳を澄ませば、生命は満ちていた。生きているというだけで、孤独とは無縁であるのかもしれないとエリクは達した。
 靴が砂に埋もれていく。引き抜いて、踏みしめる。砂が低く啼いた。
 そのとき、背後で銃声が響いた。
 誰かに背中を押されたように、エリクは一歩前に踏ん張った。風に硝煙のにおいが混じる。太陽の輝きの下、片腕が濡れていた。白い砂の上に点々と赤い染みが落ちる。エリクはふと、幼少の頃を思い出した。食事中に皿をひっくり返し、母にひどく怒られたことがあった。あれはなぜだったのだろう。
「あなたがハルなら、両手を上げてこちらを向きなさい」
 少女の声は震えていた。エリクにはそれが怒りのためか、嗚咽のためか、恐怖のためか、判別できなかった。知りたい。そう思った。エリクは外套から手を出して見えるようにし、振り返った。
 記憶の端に揺らめくものがあった。そうだ、あれは母が大切にしていたハンカチだ。
「ニーナ……」
 名前を口にするだけで、湧き上がってくる愛しさで狂いそうになる。
 少女は泣いていた。だが麦色の美しい瞳には、世界の悲しみにも打ち勝てるような強い輝きがあった。
「どうして、どうして……」
 ニーナは呟いて、構えていた銃をおろした。
「どうしてあなたがハルなの」
「その銃は仕事場から持ってきたのか。どの箱に入っていた」
「そんなこと、あなたには関係ないでしょ……」
 泣き崩れるニーナの靴を見ると、よほど無茶をしたのか穴が開いていた。固い革の隙間から、小さな足指が覗く。エリクは一歩踏み出した。
「それ以上来ないで」
 少女は顔を上げて銃を構えた。手が震えて銃口が定まらない。
「もう片方の腕で支えないと当たらないよ」
「黙って。そんなことより、もっと他に言うことはないの」
 撃たれた腕の先が痺れていた。エリクは腕を下ろした。ニーナは黙認した。
「俺から何を聞きたい」
「本当のことよ。あの夜、何があったのか」
「ルイから聞いたんだろう。だったらそれが真実だ。俺から言うことは何もない」
「じゃあ夕べ、私がハルの話をした時になぜ逃げたの。ハルであることを隠すつもりだったからじゃないの」
 ニーナは膝に手をついて立ち上がる。
「ずっと探してた。おぼろげな記憶の中で聞いた、ハルという名の男を。私が裁かなくても、神がきっと裁いてくださる。そう慰めるには、あまりにも多くを喪ってしまった。家族も故郷も自由も未来も。私はあなたを倒すことでしか、私の道を取り戻すことが出来なくなってしまったのよ。なのに、どうして……」
 ニーナはうな垂れた。小さな手に、銃は不似合いだった。エリクは震える彼女を抱きとめることも出来ず、目を逸らした。
「ハルというのは、母の名だ。食い扶持を減らすため、幼い頃ドール館に売られ、転々としたとか。父は西の軍人だったそうだ。確証はないが……」
 砂に落ちた血はすぐに染みて、かすかに余韻が残るだけだった。どのくらいの血が失われたのか、エリク自身にもわからなかった。
「俺が生まれたのは東国の、大砂漠に近い小さな町だった」
 エリクは腰に下げていた工具鞄を投げ捨てた。使い込んだ革の帯には、銃が収まっていた。いやに重く感じたのだった。
「特に何もない場所だったが、戦略上の要地だったためか、軍人向けの店や宿で賑わっていた。俺のような混血児も珍しくはなかった。街道沿いは拓けていたが、農地を越えると森が生い茂り、ただ立っているだけで息が詰まるような、蒸した町だった」
 砂が描く低い稜線は、境目が熱で滲んでいた。ずっと遠くにあるはずの南方の森が、空に染み出している。
「ある日、起きると軍が一斉に引いていた。何が起こったのかわからなかったが、俺は母に怒られたくない一心で、日課の水汲みで森へ入った」
 目を閉じると、色の失われた記憶がよみがえる。
「爆発を聞いたのは、沢から上がった時だった」
「攻め込まれたの?」
 小さな掠れた声でニーナは問う。エリクは首を横に振った。
「攻め込ませたんだ。東軍は町を囮にして西軍をおびき寄せた。森から出た時には横腹を衝かれた西軍が、ちりぢりに逃げ回っていた」
 記憶は他人のもののようで、引き出される感傷は後付けに感じられた。
「騒ぎが収まるのを待って家へ戻ると、母の服を着た女が死んでいた」
 美しかった母の顔は原型が残っていなかった。幼いエリクには母の死が理解できなかった。ニーナは息を呑んで目を瞠った。
「じゃあ、あなたも戦争で親を」
 エリクは沈黙した。ニーナが考えることには予想がついていた。
「なぜ!」
 ニーナはエリクの外套に掴みかかった。激しく揺らして胸を叩いた。
「なぜあなたは繰り返したの! 悲しみを、孤独を、憎しみを!」
「他に、仕事を知らなかった。戦うことが全てだと思っていた。だが軍には入りたくなかった。町を見殺しにするような軍には……」
「同じよ! それでは何も解決しない!」
「だったら君には、この歯車をとめられるのか! 世界の我侭を、俺の罪を」
 射るような日差しが鼻先を掠めていく。体が外へ溶け出していく。広がっていく。エリクは世界と自分の間にある確かな隔絶と、絶対的な慈悲の眼差しを感じ取った。個として存在することは悲しみでも孤独でもない。それは永遠の繋がりだ。
 生きている。だから死ぬ。どちらも流れの中の一面に過ぎない。たとえこの命が散ったとしても、世界とは繋がっていられる。エリクにはそう感じられた。
 エリクは銃を持つニーナの手を掴み、銃口を自らの腹に向けた。ニーナは手を振り解こうとしたが、エリクの指が引き金にかかったのを見て狼狽えた。
「や、やめて。放して」
「離さない」
「いや……! 私、あなたを撃ちたくない」
「嘘、撃ったくせに」
 血に染まった腕を見せる。ニーナは強く目を瞑って首を振った。
「だって私、エリクのことが好きだから。これ以上、大切な人を喪いたく――」
 ニーナはエリクの顔を見上げて言葉を失った。海のような青の瞳を優しく細め、彼は見たことがないほど朗らかに微笑んでいた。
「君に殺されるなら、本望だ」
 乾いた大地に銃声が響き渡った。重ねられていた手が、離れていく。微笑みが遠ざかっていく。エリクの体が砂の上に倒れた。
「エリク!」
 ニーナは膝をついて彼の顔を覗きこんだ。
「エリク、返事をして、エリク!」
 呼びかけに、微かに彼の唇が動く。だが声にはならなかった。外套に血が染み広がっていく。焦燥が彼女の心を蝕んでいく。思考が失われていく。太陽がじりじりと二人を灼いた。
 ニーナは手にしたままの銃を見つめた。明るい光の下で見ても、銃の黒は揺るがない。
 銃口をこめかみに当てる。引き金に指をかける。浅い息の彼を見つめた。耳に染み入るような心地よい声を知っている。器用に動く指先を知っている。閉ざされた瞼の奥の、澄んだ青い瞳を知っている。
 掌に汗が滲む。涙が、溢れた。
 ニーナはエリクの体に突っ伏して、声を上げて泣いた。布越しに伝わってくる肌はあたたかく、傷口は未来を求めて痙攣していた。
「父様、母様、ごめんなさい」
 指先から銃を引き剥がし、投げ捨てる。
「私、この人を助けます」
 外套を裂いて傷口に当てる。工具鞄の帯で布を固定し、ニーナはエリクの腕を肩にかけた。重さで真っ直ぐ立てなかった。それでもニーナは町を目指して歩き出した。
 南方から吹く風は燃料のにおいがした。振り返ると、砂塵を巻き上げて走る車の姿があった。

―おわり―